自分勝手に両親は親族から聞いた昔のことを書いていってますが、回を重ねるごとに自分でも何を書いたか忘れるようになってきました(笑)
なので最初から全部に副題をつけてみました。
これでどういうことを書いたかタイトルを見て思い出せます♪
今日は、昨日ちらっと書いた神戸の空襲のことを書きたいと思います。
うちの母とその家族も神戸の空襲を経験してます。
幸いにも家族全員無事だったんですが、空襲の中、まだ小学生(正確には国民学校生)だった母は一度家族とはぐれ、もうちょっとでそのまま取り残されるところになり、すぐ上の伯母が探しに戻ってくれて家族と再会することができたそうです。
「ぼーっとしてしもて気がついたら一人やった」
「あのまま残されたら生きてなかったかも」
「おばちゃんに何しとん!と怒鳴られてはっとした」
そう言ってたのを聞きました。
そうしてなんとか家族は無事だったんですが、空襲で荷物の大部分を失うこととなりました。
空襲より前に母達の実家は「接収」されることになってました。
「接収」とは、国や軍に家や持ち物を取られること、お国に寄付させられることです。
嫌でもどうしようもありません。
この際だからと祖母、一番上の伯母とその娘、母のすぐ上の伯母、母、母の弟である叔父は広島の竹原に疎開することになりました。
一番上の伯母さんの夫の実家です。
そして祖父と、大学生で京都に下宿していた伯父が帰ってきた時に過ごすための家を借り、そこに荷物を移したんですが、皮肉なことに引っ越したその夜にその引越し先が焼けてしまいました。
もう一日引っ越しが遅かったら、実家は出なければいけないとしても荷物は無事だったでしょうにねえ。
竹原に送った荷物とおじさんの京都にあった荷物だけは無事だったようですが。
そのまま母達は竹原に行き、そこで終戦を迎えることになります。
「接収」された母が生まれ育った家ですが、戦後も返還されることはありませんでした。
実は今もそこの住所がうちの本籍地になったままです。
両親が結婚する時、父は愛媛が本籍だったので、神戸が本籍の方が便利だろうと母の本籍を選んだんです。
そして私の本籍もそこだったので、うちの苗字になったクマ旦那さんの本籍地も自然にそこになりました。
「これで自分も神戸っ子!」
と、大変喜んでますが、その本籍地、今はテニスコートになってます(笑)
一度だけ母と見に行ったことがあり、今もネットの地図で調べたらテニスコートのままです。
高松のおじさんも同じく本籍地を移していないのでうちと同じ本籍、そしておじさんの長男もそのままなのだそうです。
もしも国に取られていなかったら、あそこがうちのいなかだったかも知れない。
私が子供の頃、大伯母の料亭に一族集まってお正月をしていたように、あそこでみんなが集まっていたかも知れませんね。