「神戸」タグアーカイブ

まほろばのクリームパン

昨日から今日にかけて、色々大変でした・・・
ただでさえ忙しいのに、あっちが壊れこっちが壊れ、用事が入りでバタバタバタバタ過ごしてくたくたになってます。

こんな時には甘いものが食べたい。

というわけではないんですが、買い物に行った先で見つけた写真のパンをはふはふ食べました。

神戸周辺では有名なお店です。

今日は少し遠いお店に買い物に行ったので見つけてしまい、疲れてるのもあって買ってしまった(笑)
見た目は普通ですが、中身がね、すごくずっしりどっしりおいしいカスタードクリームが詰まってます。

本当は明日の朝食べようと思ってたんですけどね。
うん、疲れてたの、すごく疲れてました。
いいよね?(笑)

丸い湯船のお風呂屋さん ~ひよこの聞き語り(30)

父親のお友達に初孫さんが生まれたそうで、お宮参りの話から、うちのお宮参りの時の写真を見せることになりました。
えーと、見事に白黒写真(笑)

そんなことから昔の写真を父親と見てて、

「そう言えば、おばちゃん(一番上の伯母さん)の近所のお風呂屋さんに丸い湯船があったの知っとう?」

と聞いたら、知らないという返事。

「前に言うたけどなあ」

と、もう一度説明(笑)

私が子供の頃の記憶に「丸い湯船があるお風呂屋さん」がありました。
もう祖父母はずっと前に亡くなってしまっていたので、この伯母さんの家が母の実家みたいな感じで、私を産んだ時もここに里帰りしていました。

子供の頃、土曜日はまだ半日、お昼まで学校があったんですが、日曜日になるとこの伯母さんの家かその近くにある大伯母の料亭に行ってました。
なので半分は花隈や元町で育ったような感覚です。

伯母さんの家にもお風呂はあったんですが、ほぼ一人暮らしだったので掃除をしたり沸かしたりが面倒だからか、銭湯に通っていました。

私が勝手に思うことですが、さびしがりだから、社交的な意味合いもあったんじゃないかなあ。
ご近所の人とお付き合いはよくしてたので、あっちこっちで出会っては話してたような気がする。

大人になって、その「丸い湯船のお風呂」の話をしても、母も伯母(母のすぐ上の伯母さん)もいとこも、みんな「覚えてない」と言うんです。
その頃にはそのお風呂屋さんを一番知ってる一番上の伯母さんはもう亡くなっていたので、誰に聞いても不明のままでした。

長年そうだったんですが、社会人になってからできた友人が、たまたまそのお風呂屋さんの近くに住んでいました。

その友人のお宅が、たまたまそのお風呂屋さんのごく近所で、家風呂はあるんですが、大きいお風呂がいいからと毎日のようにそこに通っているんです。
これは、家族が減った今もそのようです。

友人とは長い付き合いになりますが、ずっとお風呂屋さんの話はしてませんでした。
私も年中覚えてるわけではありませんしね。

そしてある時、

「そう言えば○○さんの行っとうあのお風呂屋さん、私も小さい頃に行っとったことあるみたい」

てな話になり、

「その時に丸い湯船があったんちゃうかなと思うねんけど、家族はみんな知らん言うねん」

と言ったら、

「あったよ、昔あった」

と言われてびっくり!

だって、私がそこのお風呂屋さんに行ってとしたら、2、3歳ぐらいの時のことなんです。
確かにかなりちびだったみたいで、湯船に入ったら座ると顔が浸かってしまうので、立って入ってた記憶があります。

話を聞いてみると、どうもずっと昔、友人や私がまだ小さい頃に改装したか何かでなくなってしまったようですが、確かに小さい頃にはあった、そうです。

彼女とは、母が元町に住んでた頃は彼女のお母様も元町の比較的近くに住んでらっしゃったりして、思わぬところで接触があっても不思議じゃないという不思議な関係なんです。

それで母親にそれを話しても、「覚えてないなあ」でしたが(笑)

何にしても、数十年後に確かにそういうお風呂があった、ということが証明できてすっきりしました。

父親が言うには、そのお風呂に入ったことは、多分本当に幼い頃だろう、とのことです。
花隈に泊まった時とかには、大伯母の料亭近くにある、もっと大きい銭湯に行くか、料亭にある大きい客用のお風呂に入る方が多かったらしい。

まだ小さい頃は、伯母の家近くにある銭湯の方が、行きやすかったんでしょうね。
それに、私が小学校の半ばぐらいから、伯母さんは病気でよく入院とかしてたので、行っても世話してもらうようなことにはならなかったのかも。

そうそう、そう言えば、そのお風呂に私は落とされたことがあるんだそうです。

まだ私が赤ん坊の頃、母のすぐ上の伯母さんと、伯母の娘のいとことがまだ小さい私をお風呂に連れて行ってくれたらしいんですが、湯船に浸けようとして、

「あ!」
「あ!」

と、2人の目の前で湯船にどぼん!

どうしよう!と思うまもなく、

「あ・・・」
「あ・・・」

底についたのか、ゆっくりぷか~んと浮かんで上がってきたそうです(笑)

そのおかげか、運動は全般的にどれもできないのに、不思議と泳ぎだけはできるようになりました。
丸いお風呂のおかげ、かな?(笑)

交換されそうになった母 ~ひよこの聞きがたり(24)

前々回の「小町だった曽祖母」で生まれたばかりの母を「また女ですわ」と言った曽祖母ですが、やはりこちらの祖母でした。

今日、父親と話していて聞いたら間違いなかった。
よかった、冤罪じゃなくて(笑)

父親と結婚する前に母の両親とも亡くなっているんですが、家と会社が近かったりと、父は多少祖父母のことを知っていることがあるんです。

父によると、やはり祖父の両親である曽祖父母のことは聞いたことがほとんどないみたい。
ひょっとしたら、神戸に来て割りと早くに亡くなってしまったのかも知れない。
調べたら分かるんでしょうが、今のところはそこまでしか分かりません。

それで、その母が生まれた時のことなんですが、曽祖母にそう言われて祖母はかなり傷ついて悩み、実際に交換しようかという話が出ていたようです。

相手は祖母の妹か姉。
多分妹だったと思うので、ここでは一応妹(仮)で話を進めたいと思います。

祖母の姉妹はおそらく5人、全員女の子だったようです。

一番上が神戸の花隈で料亭をやっていた長女で、私が高校2年の時に亡くなりました。
私達はこの人のことを「大きいおばあちゃん」と呼んでました。

一番下が「大きいおばあちゃん」と一緒に料亭をやっていたのかどうか分かりませんが、一緒に料亭に住んでいた人で、私達はこの人のことを「小さいおばあちゃん」と呼んでました。
大層なべっぴんさんだったんですが、私が小学校2年の時に亡くなりました。

間に3人いるはずなんですが、1人は分かりません。
私はどういう人だったか聞いたことがないので、ひょっとしたら若いうちに亡くなったのかも知れません。

残った2人が私の祖母と、その妹(仮)でした。

祖母は上から女、男、女、女(母)、男が成人した子供です。
そして妹(仮)は上から女、男、男、男が成人した子供です。

妹(仮)は最初の人と死別か離別したらしく、一番上の女の子は「大きいおばあちゃん」夫婦の養女になってました。
これは、かなり大きくなるまで隠していたようですが、私が物心つく頃には、もう普通にみんな知っている事実でした。

この女の子の後、ちょっと間が開いてから次の父親の子として3人の男の子が生まれました。
この3人がうちの母親と大体同じ年代です。

どうやら曽祖母は、そちらには「また男の子」と言ってたようです。
う~ん、なんか、結構、いやかなり性悪ですなあ、曽祖母(笑)

そう言われたその妹(仮)も悩んでおり、姉である祖母と、

「男の子と女の子1人ずつ交換しようか」

という話が出ていたんだとか。

あちらの次男とうちの母親がほぼ同じぐらいの年だったかな、その2人を交換する、そんな感じです。

どういう状態でその話が出たのか分かりませんが、祖母がその話を祖父にしたら、叱られたそうです。

「男の子でも女の子でもうちの子には変わりない、そんな馬鹿なことは考えないように」

と言われ、交換はなくなったとか。

もしも、その時に母とあちらの次男が交換されてたら、母と父が出会うこともなかったかも知れない。
そうしたら、私も妹も生まれてないかも知れない。
そう考えると、ものすごく私と妹の運命を左右する出来事だったんだなと思います。

それにしても、どっちでもええやん、自分の孫やのに・・・
ちょっとひいおばあちゃんを叱りたい気持ちです(笑)

小町だった曽祖母 ~ひよこの聞き語り(22)

前回まで書いてた広島から神戸に出てきた曽祖父母ですが、これは母の父の両親の話です。

残念ながら、それ以外は全くどういう人だったのか聞いた記憶がありません。
「没落して広島から神戸に来たこと」と「長男を早くに亡くしていること」だけです。

今日は母の父方ではなく、母の母方の曽祖母のことをちょっとだけ書きたいと思います。
この方のこともほぼ知らないんですが、母からちょろっとだけ聞いてることがあるのでそのことを。

母の母の母である曽祖母は、どうやら美人だったそうです。
元々が明石の造り酒屋の娘で、若い頃は「江井ヶ島小町」と呼ばれていたそうです。

その小町さんがどういう経緯で神戸に嫁いだのかまでは分かりませんが、明治も後半ぐらいの時代のことなので、多分お見合いじゃないでしょうか。

ただ、うちの母親は、この曽祖母、母から見た祖母とはあまり合わなかったらしいです。
母が小学生の頃に亡くなったので、合うとか合わないとか言う以前じゃないかと思うんですが、少なくとも母は「嫌いだった」と言ってました。

どうして嫌いだったかと言うと、今はあまり使ってはいけない言葉を投げられていたから、だそうです。

うちの母は、私が知ってる大人になった母ですが、よく歌ったり踊ったりしてました。
どっちかと言うと陽気な人だと思います。

ただ、子供の頃はかなり難しい子供だったらしい。

例えば、母の兄弟姉妹は全員、そして私や妹も「生田神社」の氏子で、伯父伯母達は小さい頃にお祭りで「お稚児さん」をやってたらしいのですが、幼い母だけは断固として「嫌」と言ってやらなかったとか。
高校時代には演劇やってたり、大人になってからは社交ダンスやったりしてたらしいので、とっても信じられませんが、とにかくそういう子供だったとか。

そして曽祖母と会う時にもほとんど口をきかなかったらしい。

あまり今は使っていい言葉ではないんですが、時代的なことで、具体的にそう言われてたらしいので書きますが、あまりに話さないので、曽祖母からいつも、

「おまえはおしか?」

と、言われていたんだそうです。

会う度に言われ、

「それで余計に口をきかなかった」

と言ってたので、孫にそういうこと言う祖母も祖母なら、孫も孫だと思いますが、まあ、そういう感じだったとか。

それともう一つ、これは母の父方か母方かはっきりしないので、もしも祖父の母である曽祖母の話だとしたら、小町の曽祖母には大変申し訳ない間違いになるんですが、どうもこの方だったんじゃないかなと思うので、もう一つエピソードを書きたいと思います。

母には姉が2人と兄が1人、そして弟が1人います。
上から、女、男、女、母、男の順番なんですが、その1番目と2番目の間に1人か2人、そして上の伯母と母の間でも1人亡くなってるいるそうなんです。
1番上の伯母と2番めの伯父の間は7つ開いていて、その間で亡くなったのが男の子で、母のすぐ上で幼いうちに亡くなったのは女の子でした。
なので母は少なくとも4女になります。

その段階でまだ下の叔父は生まれてなかったので男の子は2番目に生まれた長男の伯父だけです。

そして4番目の女の子の母を産んだばかりの祖母が、まだ床上げもしてない時に曽祖母が、お祝いを言いに来てくれる見舞客に、

「また女ですわ」

と繰り返し言っていて、それを耳にした祖母はいたく傷つき悩んだらしいのです。

私の中ではそれもその小町の曽祖母だとずっと思っていたので、「美人だけど性悪な人」なイメージができてしまってます。
そもそも、祖父の両親の話は最初に書いた2つ以外聞いたことがない。

それでも、まだ戦前か戦時中のことですが、その曽祖母が亡くなる時にお小遣いをくれて、

「動物園にでもいっといで」

と言われ、多分下の叔父と2人でだと思うのですが、今はないけど諏訪山の動物園に遊びに行き、帰ってきたら亡くなっていたらしいです。

本当はどういう人だったのかなあ、もっとおじちゃんおばちゃん達にも聞いておけばよかった。
さすがに高松のおじさんは覚えてないと思うし。

ちなみに、その曽祖母の出身の明石のM酒造ですが、合併して今はそこそこの大きさの酒造会社の一部になっているのではないか、と聞いています。

私が高校の頃、まだ大伯母達が存命の頃、江井ヶ島にあるお墓の話をしていたので、あの時によく聞いておけば、ご先祖のお墓参りに行けてたかも知りませんね。
うちの母親は場所を知らないそうで、一番上の伯母だけが「江井ヶ島のおばあさまの家に行きました」と作文に書いてたのを知るばかりです。

どこにあったのかなあ。
広島はすぐに行ける距離じゃないけど、江井ヶ島は日帰りできるところなので、知らないうちに血縁のある親戚とすれ違ってる可能性もあるのかも、と思うと、ちょっと変な気持ちになったりしますね。

あ、最後の最後ですが、私には小町の片鱗もございませんのであしからず(笑)

ジュラルミン街 ~ひよこの聞き語り(18)

毎朝「べっぴんさん」を見ています。

そして実家に行ったら父親とドラマの話をしたりするわけなんですが、今朝は、

「あさやさん、元町で焼け残った言うけど、あんまり元町っぽくないよね、セットやから仕方ないけど」

というところから、また戦後の元町の話になりました。

うちの父親は戦後すぐに神戸に出てきたわけではありません。
父親の母親、つまり私のおばあちゃんが病気になり、もうあまり長くないということで、高校卒業後そのまま家に残り、おばあちゃんが亡くなってから就職で関西に出てきました。

なので、父親が神戸に来た頃にはかなりもう復興していたそうなんですが、それでも元町はまだまだ空襲で焼けた名残が残ってはいたようです。
阪神淡路の名残が今もまだ残ってるように、あっちこっちで気づくと何かある、というぐらいだったのかも。

「元町も空襲で焼けて、3丁目はうちの会社と同和火災のビルだけが残ってた」

父親と母親が勤めていた会社のビルは外が焦げたりはしたものの残っていて、外と中を直して営業をしていたようです。

元町は、1丁目から2丁目、3丁目あたりが空襲に会い、また反対側の7丁目も神戸駅の近くなので焼けたんじゃないか、と父親が言いました。

「べっぴんさん」で「あさや」さんとして出てくる靴屋さん、本当にあったお店がモデルなので、

「元町でも焼けなかった6丁目あたりやったのかなあ」
「そうかもな」

そんな話をしてたらまた父親が、

「3丁目その2つのビル以外は全部焼けてしまってトタンか何かで作ったからか『ジュラルミン街』と呼ばれてた」

と言うのを聞いてびっくり、

「え、そんな話初めて聞いたよ!」

そうなんです、元町がそんな呼ばれ方してたなんで、今日、父親に聞いて初めて知りました。

調べてみたら、戦時中に航空機工場から松蔭女学校へ疎開させていたジュラルミンの払い下げを受け、戦後まもなく元町の共同店舗をキラキラ光るジュラルミンで作ったから、だそうです。
父親が金属だからトタンか何かと思っていたのは、本当にジュラルミンだったんですね!

昭和も30年代に入り、段々とジュラルミンの外装を持つ店舗は建て替えられていったそうですが、今も残っているところがあるそうです。
全然知らなかった・・・

私が知ってる元町は、もう建て替えられた後の元町です。
と言うか、元町がそこまで焼けたなんて知らなかったきがします。

母親が20年代半ばに元町に戻り、その数年後に父親が会社に勤めるようになりました。
その頃はまさに復興の真っ最中だったんでしょうね。

なので、もう生活ができてる元町の印象しかなかったんです。

他に印象が残ってるのは、母親が言ってた、

「元町の通りにチャーチルやルーズベルトの顔を描いてあって、それを踏んで通るようになってた」

ことです。

主に聞くのは戦後の元町での母親達の生活のこと、そしてその「鬼畜米英」の踏み絵のことだったので、今回聞いたジュラルミン街は本当に新鮮でした。

それと、「あさや」さんのモデルですが、ドラマでは元町になってましたが、事実は三宮センター街のようです。
あのあたりも焼け残ったのかな?
また父親に聞いてみようと思います。