日本初出店の「マシュー&クリスピー」

ゴールデンウィークだと言うことで、今日は妹一家が実家に来て、みんなでご飯食べたり大忙しでした。

いっぱいしゃべっていっぱい食べてテレビ見てトランプして、すっかり帰ってくるのが遅くなりました。
楽しかったけど忙しいので疲れた(笑)

その時に、写真のようなお菓子をもらいました。

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「合格の内祝い」

中身は2枚目と3枚目な感じです。

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中のお菓子は色々と組み合わせられるらしく、姪っ子が一生懸命組み合わせを考えてくれたらしいです。
ありがとうね♪

見たことがないなと思ったら、

「Matthew & Chris.P(マシュー&クリスピー)」

というニューヨークの「ライスクリスピー」の専門店で、日本では神戸の大丸に初出店だそうです。

へ~知らなかった。

今日はお腹いっぱいで食べられないのと、もったいなく食べられない(笑)
かわいいなあ、どんな味かなあ?
古くならないうちに食べないとだけど、本当、かわいいからどうしましょ(笑)

ゴールデンウィーク、だそうですね(笑)

今日からゴールデンウィークだそうですね、我が家はあまり関係ないのですっかり忘れてました(笑)

朝、テレビをつけたらニュースをやってる時間帯なのに深夜のバラエティの再放送をやってたのでびっくりして、

「あ、そうか今日は休日か」

と気付いたのでした。

私が高校の時に父親が商売を始め、その頃からもうずっとこんな感じですね。
当時は定休日も日曜日ではなかったので、たまたま祝日と重なったらお休み、でした。
母親は大変だっただろうなあ、と今では思います。
日曜日や祝日に子供が休みでも店があるから朝もゆっくりしてられませんしね。

明日は妹一家が来て実家に泊まると言ってるんですが、普通の土日で私は日曜日がお休み、なのでこれもいつもと変わりません。

来週はちょっと店が休むと思いますが、父親のご飯作ったり、やっぱりあまり普段と変わらない日になりそうです。

一番いつもと違うのは、夕刊がないことかなあ(笑)

新制高校生になった父 ~ひよこの聞き語り(8)

前回(ひよこの聞き語り(7))、

「母親が入学した学校と卒業した学校が全部違う」

という話を書きました。

母親の場合、戦前戦後の混乱で行っていた学校の名称が変わったことと、疎開で引っ越したことが原因でした。

母親のやや年長の父親も、やはり学校の名称が違っています。
こちらはずっと同じ家で生まれ育ったんですが、同じく時代のせいですね。

父親は母親と同じく「尋常小学校」に入学しました。
ここまでは同じ。

次に、母親は「高等女学校」に進学し、それが「新制高校」に移行したわけですが、父親は「尋常高等小学校」に入学しました。

これは、小学校の上にある学校で2年間だそうです。
受験する人は「中学校」に進むわけですが、父親は受験をせずにそちらに進学したそうです。

理由は、

「高等小学校を出たら兵隊さんになるための学校に入ろうと思っていた」

からです。

「どうせみんな兵隊に行かされる、ならばその学校を出たら20歳ぐらいで少尉になれるから」

と考えた末の進路だったそうです。

そのつもりで「尋常高等小学校」に入ったものの、戦争が終わって決めていた進路がなくなり、また中学を受け直して編入し、そこから「新制高校」に進んだらしいです。

父親の年齢だと、学校に入ったからと言ってすぐに戦地に送られることはなかったと思いますが、それでも、

「入学してたら何発かは殴られてたやろなあ」

とのことです。

殴られるような学校に行かなくて本当によかった(笑)

父親のほんの少し上の方では学徒動員で出征されて戻らなかった方もいらっしゃるようです。
そしてこちらは兵隊さんに行ったわけではないですが、同学年の方で、小学生一人で満州の開拓団に入った方がいらっしゃったそうです。

「満蒙開拓団」

たくさんの日本人が満州や内モンゴル自治区に開拓団として入植されたんですが、その方は家族ではなく、たった一人で志願して行かれたんだとか。
調べたところ、「満蒙開拓青少年義勇軍」というのもあるらしいのですが、そちらは16歳以上ですので、11か12の小学生が入れたようには思えません。
なんにしても、すごい勇気と言うか、なんと言うか・・・

幸いにもその方も無事に戻られ、2、3年前に父親が妹達といなかに帰った時のもご健在だったそうです。
聞いてほっとしました。

しかし、母親の場合は、名前は変わったとしても一応自分が考えていたルートに沿って進学していますが、父親は違います。
いきなり進路がぶっつりと切れ、慌てて進む先を考えなおしたことになります、たった10歳ちょっと過ぎたぐらいの子供が。

「どんな気持ちだった?」

と聞いてみましたが、

「なくなったもんはしょうがない」

みたいな返事でした(笑)

まあ実際そうなんでしょうねえ。

なんにしても、無事に八十の坂を越し、まだまだ元気でいてくれる、それだけでもう充分かな。
せっかく元気でいてくれるんですから、絶対に100は超えてもらいます、ええ(笑)

讃の岐三みるくつつみ

今日は写真のようなお菓子をいただきました。

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高松の菓子工房「ルーヴ」の「讃の岐三みるくつつみ」です。

春は、「いかなごのお礼」と、色々いただきものをして、たくさん見たこともない知らなかったおいしいものをいただきます(笑)
今回もまた初めてのおいしいお菓子です。

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「希少糖」を使っていて、中身はミルクのあんこと言うかクリームと言うかの中に粒のあずき、おいしい!
和三盆を使っているので上品な甘さです。
練乳も入っているので甘い物大好きなクマ旦那さんにも、やや控えめな甘さが好きな私にも口に合いました。
これは結構めずらしいかも。

おいしかったので高松のおじさんにも教えてあげようと思います。
多分知らない、うんきっと知らないはず(笑)

アメリカさんと祖母 ~ひよこの聞き語り(7)

うちの両親やその家族に関わらず、第二次大戦を経験した方はまだいっぱいいらっしゃいます。
最低でも70歳以上ですけど。

昨日まで敵だと言ってたアメリカ軍がいきなり周囲に出現したり、今までの価値観がひっくり返されたり、そういう経験をしたことがないので、どんな気持ちだったのか、とかは想像するしかありません。
私も両親やその兄弟達からちらほらとは聞いてますが、それでも、ぐっと遠くの出来事、みたいな感じではあります。
そんなエピソードを一つだけ、ちょっと笑いを交えて(笑)

やはり母方の祖母のことなんですが、当時の普通のお母さんがそうだったろうと思えるように、やはり「鬼畜米英」を教えられていたもので、戦争に負けたと知った時は覚悟をしたようです。

「もしも、アメリカやイギリスが日本に上陸したら、お母さんはあんたらを殺して私も死にます!」

と、子供達に言っていたそうです。

結局、そういうことにはならずに済んだんですが、自分の子供にそういうことを言う気持ちはどうだったのか、想像するだけでも苦しいです。
そして、うちの母達は幸いにもそうならずに済んだんですが、実際に家族で自決された方もいらっしゃるんですよね・・・
「そういう時代だったんだ」で済む話ではありません。

ただ、うちの母の家族はその後数年して神戸に帰って来て、また家族みんなで暮らせるようになった、幸せだった、運が良かったと思います。

終戦の日、母達は広島にいたんですが、神戸に帰ってきて元町に住みました。
戦前に住んでいた家は国に接収されてそのまま戻ってこなかったんです。
それですぐに帰れなかったのかも知れませんね。

とにかく、帰った頃には小学生(正確には国民学校生)だった母が女学校を経て高校生になっていました。

元町には進駐軍も多くいたようで、うっかりと靴をはいたままで家に入ってこられた、ようなこともあったようですが、何にしろ「鬼」「悪魔」と思っていたアメリカ兵と接触する機会も少なからずあったようです。

ある日、祖母がおじさんの娘(祖母にとっては2番目の孫で私のいとこ)を抱いて家の外に座っていたら、アメリカ兵が近寄ってきて、

「カワイイベビサン、コノヒト(いとこを指さし)ママサン(祖母に)?」

と、片言の日本語で聞いてきたんだそうです。

そしたら祖母が、

「のーのー、この人(自分を指さし)ベビさんのーのー、この人(おじさんの奥さんでいとこの母親を指さし)ベビさんね」

と、ニコニコとアメリカ兵に答えた、んだとか。

たった数年前まで「来たら死ぬ!」とまで思っていたアメリカ兵にこの対応(笑)

祖父は英語を話せたらしいですが、祖母は時代的にもおそらく小学校か高等小学校しか卒業してなくて、それほど高度な教育は受けていないはずです。
なのにこの順応力(笑)
多分、たった一回の邂逅ではなく、ちょこちょことそういうこともあったんでしょうけどね。

神戸の元町という土地柄、そして祖父の仕事柄周囲に進駐軍の人が多くいた関係もあるんでしょうが、

「柔軟だなあ」

と、感心しました。

私だったら、殺されるとまで思った相手にそうできるかなあ。
できるような気もするし、できないような気もします。
その時にならないと分からない、かな。

ただ、祖母のエピソードの一つとして何回も聞き、そのたびに、

「おばあちゃんおもしろいなあ」

と思っていました。