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何もなくても絶対食べない ~ひよこの聞き語り(26)

今日は勤労感謝の日なんですが、クマ旦那さんはお仕事で出ています。

今日も帰り遅いんだろうなあ。
待ってても仕方ないので、先に食べて、帰ってきたらすぐにお風呂入ったり食べたりして寝られるように準備します。

昔、うちの父親がまだ店をやる前、やはりいつも帰りが遅かったです。
なので母と妹と私の3人で先にご飯を食べてました。

そして実は、私は小学校の中学年ぐらいまで、ものすごく偏食でした。
肉嫌い、魚嫌い、野菜嫌い。
一体何を食べてこんなに大きく育ったの?と考えてしまうぐらい食べられない物だらけ。

なので、晩ご飯を食べられない時は、食べられるもの、ソーセージとか目玉焼きとかラーメンとか、そういうのを食べてました。
幼稚園に入るか入らないかの頃からそうで、当時丸くて細長いストーブの上に小さい鉄のフライパンを置き、そこで自分が食べるソーセージを炒めたりしてたなあ、
思えばそれが私が料理をするようになったようになったきっかけです。

ただ、父親が早く帰って来たら許されないんですよね・・・
「ちゃんと食べなさい」と嫌いな物を自分のお皿とかに入れられて、涙目になりながら食べてました。

後年、

「どうして母は私の偏食を許しくれてたのか」

が、分かりました。

実は、母は場合によっては私より何倍も偏食だったからです(笑)
私は小学校の真ん中ぐらいから何でも食べられるようになり、それこそよほどのゲテモノ以外は何でも食べます。

母は、自分が大人になるまで不思議と気づかなかったんですが、まあ一生偏食でした(笑)

その偏食は強烈で、戦争で物がない時代でも、どうやっても食べない物がいっぱいあったようです。

神戸にいた頃はなかったような物が、広島の竹原市に疎開したらいっぱいあったそうです。
白いお米も野菜も。

のんびりした地域だったので、ある時空襲警報が鳴ってるのに、

「警報が鳴りよるの、鶏でもしめようかの」

と言ってるのを聞いて、すごくびっくりしたと聞いたこともあります。

母のすぐ上の伯母は、

「白いご飯においしいお漬物、あれだけあったら何もいらんかった、おいしかったなあ」

と言ってるのを聞いたことがありますが、あいにくと母はお漬物が嫌いで食べられず、

「お漬物しかない時はご飯にお塩振ってそれだけで食べてた」

そうです(笑)

他にも、夏は子供達が海に潜り、そのへんにいる「牡蠣」を取ってきて、殻を割って塩水でさっと洗っておやつに食べてたのももちろん食べられず、畑になってる新鮮なトマトもだめ、あれもだめこれもだめ・・・
その偏食はずっと治らず、大人になっても牡蠣はカキフライだけ、トマトもだめでした。

果物でも嫌いなものがいっぱいあり、メロンもだめスイカもだめ。
う~ん、困ったもんですね(笑)

夏なんか、スイカを切って食べてたら、ひょこひょこっと私のところにきて、

「その先の甘いとこだけちょっとちょうだい?」

と、子供のように言って取られてたなあ。

なんでいっつも私のところに来るんだ?(笑)

同じようにトマトが嫌いだったという「北杜夫」さんが、

「疎開先で嫌いだったトマトを食べておいしくて好きになった」

と書いてるのを読んだことがあるんですが、うちの母親の偏食はそれほど強烈だったようです。

私だったら、戦時中でお腹が減って減って仕方なかったら、よっぽど変なものでない限りお腹をふくらませるのに食べてただろうなあ。
子供の頃難しかったと聞いたけど、かなり頑固だったんですね(笑)

原爆を見た母 ~ひよこの聞き語り(10)

伊勢志摩でサミットがあるそうですね。
お伊勢さんは小学校の修学旅行で行って以来なので、テレビで見て「また行きたいなあ」と思ってました。

サミットだけではなく、今回はオバマさんが広島に行くというのも話題になってます。
謝罪云々じゃなく、人類の上に起こった悲劇ということで鎮魂に行ってもらえるのはいいことだと思います。

広島に原爆が落ちた時、ちょうどうちの母やその家族も広島にいました。
ただ、広島と言っても爆心地の広島市ではなく何十キロも離れた竹原市にいたので被害を受けることはありませんでした。
でも母は原爆を見たそうです。

母はちょうど女学校の受験ため、体育(当時は体操かも知れません)の補習を受けていたのだそうです。
母は勉強はどれもできたみたいなんですが、体育は補習が必要だったみたいで、さすがに私の母親です(笑)

その時間、校庭で何人かと跳び箱を跳ぶために並んでいたら、視線の先の方にいわゆるきのこ雲がもくもくと上がり、一緒にいた友人達が、

「ありゃあなんね?」

と、広島弁(竹原弁?)で言い、みんなでなんだろうと見ていたそうです。

後日、

「広島に新型爆弾が落ちた」

と聞いた時にも、まだどんな物なのか何なのか、全く分からなかったとか。

母やその家族は神戸で空襲にあいました。
その後広島に疎開してからも、対岸の松山で空襲があったのも見たそうですが、やはりきのこ雲は全く異質、今まで見たことがないものだったようで、「何?」以外に考えようもなかったようです。

今は一応平和な時代です。
過去がどうのこうのではなく、これから先もずっと平和な時代が続きますように、そのために足を運んでくれるのなら、それは歓迎すべきことだろうと思います。

男勝りのマドンナだった伯母 ~ひよこの聞き語り(9)

今、いとこがおじさんとおばさんの住んでた家、いとこの実家を片付けてます。
来週、いよいよ買い主さんに引き渡すためです。

おばさんはあの震災の年に亡くなり、その後おじさんが1人で住んでいたんですが、もう数年前に亡くなったのでそれからずっと空き家になってます。
それでも持ち家なのでなんだかずっとそのままあるような気がしていて、気持ちの上で私も甘えていたような気がします。
ずっと思い出が残っていてくれるような。

この家に住んでたおばさんは、少し年は離れてますが母のすぐ上の姉にあたります。
美人でしっかりしていて、子供の頃はガキ大将だったそうです(笑)

生きてれば今年で米寿です。
長生きしていてほしかったなあ。

そういう年なので、戦争が激しくなってきた頃にはちょうど女学校(と言ってもほぼ勤労動員だったらしいですが)に通っていて、きびしくなってきた戦況を聞いては、

「なんて男達は頼りない!私が男だったらすぐにでも行って敵を倒してやるのに!」

などと思っていたと本人から聞きました。

色々なことが伏せられていた時代とは言え勇ましいものです(笑)

その後、母達と一緒に広島の竹原というところに疎開し、そこで終戦を迎えることとなり、女学校も卒業したので役場で働いていたそうですが、その頃はちょうどお年ごろ、神戸から来たべっぴんさんはかなりもてもて、マドンナだったそうです。

そしてある時、こんな事件があったそうです。

おばさんのことを好きになった男の人がいて、ある時、多分役場の用事で人が集まるとか嘘を言っておばさんを呼び出したのかな、なんだかそんなことで行ってみたらその男の人が一人だけ来ていて、おばさんに花束を差し出して、ひざまずき、

「好きです、結婚してください!」

とやったそうな(笑)

なんだかドラマみたいですよね。
でもそんな気一切ないおばさんは、とっとと逃げて帰ってきて、あえなくその方は失恋したのだとか。

でも多分、その人はおばさんと結婚してもうまくいかなかったんじゃないかな、と思います。
と言うのはですね、上にも書きましたが「自分が男だったら」と思うような気丈夫な人です。
おそらく、役場の人達の前では猫かぶってたと思う(笑)
都会的で気が強くて、とってもいなかの農家のお嫁さんになれる人ではなかったと思います(笑)
あぜ道をバレエのグランジュテのようにポンポン飛びながら帰ってくる人、多分無理(笑)

その後、神戸に帰ってからは大伯母の料亭を手伝うこととなり、大伯母が年をとるにしたがって、このおばさんが文字通り中心で切り盛りしていました。
おばさんだから、と取引してくれるお客様も多くいたそうです。

その後おばさんは健康を損ねてから遅い結婚をし、料亭は大伯母の養女夫婦が継いだんですがつぶれてしまいました。
時代的なこともあるのでおばさんが継いでいたら今もあったとは言いませんが、もうちょっとなんとかなってたんじゃないかなあとは思います。

そう思うぐらいしっかりした、ある意味母達兄弟姉妹の要のような人でした。
私も思い出がいっぱいあるんですが、亡くなる前には毎日病院に通っていたのでどうしても弱ってきてからのことを思い出すことが多く、もっと前の楽しかった元気だった頃のおばさんを思い出さないとだめだなあと思います。
笑える話もいっぱいあるもの(笑)

アメリカさんと祖母 ~ひよこの聞き語り(7)

うちの両親やその家族に関わらず、第二次大戦を経験した方はまだいっぱいいらっしゃいます。
最低でも70歳以上ですけど。

昨日まで敵だと言ってたアメリカ軍がいきなり周囲に出現したり、今までの価値観がひっくり返されたり、そういう経験をしたことがないので、どんな気持ちだったのか、とかは想像するしかありません。
私も両親やその兄弟達からちらほらとは聞いてますが、それでも、ぐっと遠くの出来事、みたいな感じではあります。
そんなエピソードを一つだけ、ちょっと笑いを交えて(笑)

やはり母方の祖母のことなんですが、当時の普通のお母さんがそうだったろうと思えるように、やはり「鬼畜米英」を教えられていたもので、戦争に負けたと知った時は覚悟をしたようです。

「もしも、アメリカやイギリスが日本に上陸したら、お母さんはあんたらを殺して私も死にます!」

と、子供達に言っていたそうです。

結局、そういうことにはならずに済んだんですが、自分の子供にそういうことを言う気持ちはどうだったのか、想像するだけでも苦しいです。
そして、うちの母達は幸いにもそうならずに済んだんですが、実際に家族で自決された方もいらっしゃるんですよね・・・
「そういう時代だったんだ」で済む話ではありません。

ただ、うちの母の家族はその後数年して神戸に帰って来て、また家族みんなで暮らせるようになった、幸せだった、運が良かったと思います。

終戦の日、母達は広島にいたんですが、神戸に帰ってきて元町に住みました。
戦前に住んでいた家は国に接収されてそのまま戻ってこなかったんです。
それですぐに帰れなかったのかも知れませんね。

とにかく、帰った頃には小学生(正確には国民学校生)だった母が女学校を経て高校生になっていました。

元町には進駐軍も多くいたようで、うっかりと靴をはいたままで家に入ってこられた、ようなこともあったようですが、何にしろ「鬼」「悪魔」と思っていたアメリカ兵と接触する機会も少なからずあったようです。

ある日、祖母がおじさんの娘(祖母にとっては2番目の孫で私のいとこ)を抱いて家の外に座っていたら、アメリカ兵が近寄ってきて、

「カワイイベビサン、コノヒト(いとこを指さし)ママサン(祖母に)?」

と、片言の日本語で聞いてきたんだそうです。

そしたら祖母が、

「のーのー、この人(自分を指さし)ベビさんのーのー、この人(おじさんの奥さんでいとこの母親を指さし)ベビさんね」

と、ニコニコとアメリカ兵に答えた、んだとか。

たった数年前まで「来たら死ぬ!」とまで思っていたアメリカ兵にこの対応(笑)

祖父は英語を話せたらしいですが、祖母は時代的にもおそらく小学校か高等小学校しか卒業してなくて、それほど高度な教育は受けていないはずです。
なのにこの順応力(笑)
多分、たった一回の邂逅ではなく、ちょこちょことそういうこともあったんでしょうけどね。

神戸の元町という土地柄、そして祖父の仕事柄周囲に進駐軍の人が多くいた関係もあるんでしょうが、

「柔軟だなあ」

と、感心しました。

私だったら、殺されるとまで思った相手にそうできるかなあ。
できるような気もするし、できないような気もします。
その時にならないと分からない、かな。

ただ、祖母のエピソードの一つとして何回も聞き、そのたびに、

「おばあちゃんおもしろいなあ」

と思っていました。

登校拒否になった母 ~ひよこの聞き語り(6)

今日は母の学校の話をしたいと思います。

私の母は戦前の生まれで、子供の頃に終戦を迎え、戦後の混乱期に青春時代を過ごした世代です。
団塊の世代よりはちょっと上、ですね。

その母が、

「私は学校全部、入ったのと卒業したのが違う学校」

と言ってました。

母はごく普通に小学校(尋常小学校)に入学したんですが、途中でそれが「国民学校」になったので、卒業したのは「国民学校」でした。

「国民学校」を卒業後、疎開先で「高等女学校」に入学しましたが、戦後女学校が男子の学校と併合で「新制高校」になったため、移行する形でそのままその高校に通って高校生になりました。
その後神戸に帰ることになり、卒業は神戸の違う高校でした。
なので入った学校と出た学校が全部違う形になったわけです。

今は小学校から中学校、中学校から大部分が高校、そこから専門学校や大学と進むわけですが、当時はもっと色々選択肢があったようです。
母は女学校でしたが、「尋常小学校」の上に2年の「高等尋常小学校」があり、そっちに進む人もいたそうです。

とにかく、戦争の影響で学校の呼び名やシステムが変わったことと、疎開したことでそういうことになったわけです。
戦争がなかったら、そのままずっと神戸の学校だったかも知れません。

小学校卒業までは、今でもある普通の転校と同じような感じですが、色々あったのは「高等女学校」から高校になる時です。

母の行っていた学校はそこそこ良い学校だったんだそうです。
ですが、併合になる近くの男子の学校が、母が言うには「あまり良くない学校」だったため、「レベルが下がるのはいやだ!」と、学生がみんなでストライキをしたのだとか。

「学校ではなく近所のお寺に集まって、そこでみんなで授業を受けた」

のだそうです。

一部、学校関係者の娘さん達(校長先生の娘さんだったかなあ)だけは気の毒にも学校に登校しなくてはいけなかったそうですが、教師も含めて学校がそのままお寺に移動したような形でそれなりに楽しかったとか(笑)
そうやってがんばりはしたんですが、戦後の日本で全部のシステムが変わったせいなので、一部の人間だけががんばってもどうにもならず、その後結局は一緒になって「新制高校」になったのだとか。

「結局はそうなるのは分かっていたけど、みんなで意思表示だけはしよう」

と、そうなったらしいですが、すごいですよね。

ただ、そうして抵抗はしたものの、いざ共学になると、

「とても楽しかった」

のだそうです(笑)

そうして高校生活を楽しんでいた母ですが、今度は疎開先から神戸に戻ることになりました。

神戸に戻り、一度は公立高校に編入したもののどうにも合わなくて、一週間通っただけで、

「広島に戻りたい!」

と、登校拒否、どうやっても転校先に行かないとがんばったんですが、祖父が、

「家族で暮らせるようになったのに一人だけ戻すわけにはいかない」

と認めてくれなかったのだとか。

それでもどうしても戻りたいと色々と話し合いをし、

「それじゃあとりあえず、姉2人が行った私立の女子高に行き、それでどうしてもだめだったら広島に戻すことも考える」

という話になり、

「それじゃあ行くだけ行ってみる、だめやったら戻るから」

と行ってみたら、まあその学校が楽しくて、

「結局卒業まで通ってしまった」

のだとか(笑)

祖父の作戦勝ちですか?(笑)

それでも広島の同級生達とも手紙をやり取りし、お互いに行き来もしていたらしいのですが、仲が良かった同級生が結核で亡くなった後、段々と連絡をとらなくなっていったそうです。

母が持っている卒業アルバムはおば達と同じ神戸の私立高校のものですが、写真を見るだけでも楽しそうです。
私の高校時代より充実してるような気がするなあ。

一番思うのは、時代的なものかも知れませんが、

「みんなずっと大人」

だということです。

卒業の寄せ書きにしても、私の時代よりもっときちんとしてる気がします。
文章も内容も、みんな本当にしっかりしてる。

ひょっとしたら、いや、ほぼ確実に、いい年になった今の私より、当時の母達の方がしっかりしてます。
今は全体的に若くなった分、みんな子供な気もします。
いい点も悪い点もありますけどね(笑)

ただ、当時、明日死ぬかも分からない時間を過ごした分、青春時代は輝いてたんだろうなあと思います。
もうそんな時代は来てもらいたくないですけどね。
戦争のない時代に生まれただけでも、私達は幸せなんだろうなあ。