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元町の「あかつき湯」 ~ひよこの聞き語り(31)

前回、幼い頃に記憶にあった「丸い湯船のお風呂屋さん」について書きました。

その時に、

「赤ちゃんの時に湯船に落とされた」

ことも書きました。

その「落とされた湯船」なんですが、私はずっとずっとその「丸い湯船」だと思っていました。

それが昨夜、お風呂に入って湯船でゆっくり考えてて、

「待てよ、ちょっと違うかも」

と、思い始めました。

昨日、父親とお風呂屋さんの話をしていて判明した事実があります。

それは、

「私が赤ちゃんの頃は、まだ伯母さんは元町の家に住んでいて花隈には引っ越してなかった」

という事実です。

びっくりしました。
物心ついた頃にはもう花隈の家だったので、てっきり私を連れて母が里帰りしていたのはそこだと思っていたら、元町の家だったからです。

父親が、

「赤ちゃんの時に行ってたんは一番近いあかつき湯やった」

と言うので、

「なんで元町のお風呂屋さんが一番近いん?T湯(丸い湯船のある銭湯)の方が目の前やん?」

と食い違いがあり、色々話してて判明しました。

戦時中、「上筒井」にあった以前の家を国か軍に「接収され」、次に引っ越すはずの家も神戸の空襲で焼けてしまいそのまま母たちは広島の「風早」に疎開、戦後帰ったのがどういうことでそこに住むことになったのかは分かりませんが、祖父が準備していた「元町の家」でした。

なので、古い話、私が生まれるずっとずっと前の戦争からつながった時代の話に出てくる家だと思っていた元町の家に、私も住んでたことがあるんですよ!
本当にびっくりしました。

「花隈の家」には、どうも私が生まれた後、妹が生まれるまでの間に引っ越したようです。
母が妹を生む時に私が預けられてた伯母さんの家は、間違いなく「花隈の家」でしたから。
写真もあります。

とにかく、私を連れて母が元町の家にいた時に、「あかつき湯」というお風呂屋さんに行ってたそうです。

「お風呂に行くのに垢がついて帰るのか、垢つき湯か」

みたいに誰かが冗談で言ったと聞いて、名前を覚えています(笑)

まだ赤ちゃんの私を入れるのに、そのお風呂屋さんのおばさんが、

「赤ちゃん、一番湯に入れてあげ」

と、まだ開店するより早くかな、とにかくそんな時間に入れてくれてたとか。

ありがたいですね、人情だなあ。

おそらく、「元町の家」に泊まった時とかは、そこに行ってたんでしょうね。
少し大きくなるまでそこに通ってた話があります。
あまり楽しい話ではないんですが。

もう私がそこそこ物心ついてたらしいので、産後里帰りみたいにしていた時ではなく、もう少し大きくなった頃、そこのお風呂屋さんに少し身体の不自由な子供さん、かな、がやっぱり通ってらっしゃったとか。
行く時間帯が一緒になることがしばしばあり、その時に、その方を見て私が泣いてしまうらしいのです。

大人だったらちゃんと分かるけど、多分1歳にもならない頃のこと、母もどうすることもできず困ってたら、その子供さんのお母さんが、

「ごめんね、でもなんもせえへんからね、ごめんね」

と、謝ってくれて、

「すごく申し訳なかったけど、どうしようもなくて」

と、言ってたのを聞いたことがあります。

そういう話を色々聞いてたので、

「じゃあ、私が落とされたのはあかつき湯やったんやなあ」

と、父親に言ったら、

「いや、それはまた違う」

と、父親が覚えてた!

私が落とされたのは、大伯母の料亭の近くにあった、もっと大きい銭湯だったそうです。
どうも父親も話を聞いて覚えてたらしい。
もう落とした人2人も、それを話してくれた母も亡くなってしまっているので、どこに行ったのか永遠の謎かと思ってたんですが、思わぬところから証言を得ることができました。

そこのお風呂屋さんは名前が分かりません。
丸い湯船のお風呂屋さんは友人に聞いて分かったので、今は知っていますが、そこもずっと分かっていませんでした。
でもやっぱり「垢つき湯」の冗談が一緒になっていた「あかつき湯」は覚えてました(笑)

今は、すぐ近くに通えるような銭湯はないんですが、時々、大きいお風呂でゆっくり手足を伸ばして入りたいなあ、と思うことはあります。
スーパー銭湯でも近くにあればなあ。
今度足を伸ばして行ってみようかな。

ジュラルミン街 ~ひよこの聞き語り(18)

毎朝「べっぴんさん」を見ています。

そして実家に行ったら父親とドラマの話をしたりするわけなんですが、今朝は、

「あさやさん、元町で焼け残った言うけど、あんまり元町っぽくないよね、セットやから仕方ないけど」

というところから、また戦後の元町の話になりました。

うちの父親は戦後すぐに神戸に出てきたわけではありません。
父親の母親、つまり私のおばあちゃんが病気になり、もうあまり長くないということで、高校卒業後そのまま家に残り、おばあちゃんが亡くなってから就職で関西に出てきました。

なので、父親が神戸に来た頃にはかなりもう復興していたそうなんですが、それでも元町はまだまだ空襲で焼けた名残が残ってはいたようです。
阪神淡路の名残が今もまだ残ってるように、あっちこっちで気づくと何かある、というぐらいだったのかも。

「元町も空襲で焼けて、3丁目はうちの会社と同和火災のビルだけが残ってた」

父親と母親が勤めていた会社のビルは外が焦げたりはしたものの残っていて、外と中を直して営業をしていたようです。

元町は、1丁目から2丁目、3丁目あたりが空襲に会い、また反対側の7丁目も神戸駅の近くなので焼けたんじゃないか、と父親が言いました。

「べっぴんさん」で「あさや」さんとして出てくる靴屋さん、本当にあったお店がモデルなので、

「元町でも焼けなかった6丁目あたりやったのかなあ」
「そうかもな」

そんな話をしてたらまた父親が、

「3丁目その2つのビル以外は全部焼けてしまってトタンか何かで作ったからか『ジュラルミン街』と呼ばれてた」

と言うのを聞いてびっくり、

「え、そんな話初めて聞いたよ!」

そうなんです、元町がそんな呼ばれ方してたなんで、今日、父親に聞いて初めて知りました。

調べてみたら、戦時中に航空機工場から松蔭女学校へ疎開させていたジュラルミンの払い下げを受け、戦後まもなく元町の共同店舗をキラキラ光るジュラルミンで作ったから、だそうです。
父親が金属だからトタンか何かと思っていたのは、本当にジュラルミンだったんですね!

昭和も30年代に入り、段々とジュラルミンの外装を持つ店舗は建て替えられていったそうですが、今も残っているところがあるそうです。
全然知らなかった・・・

私が知ってる元町は、もう建て替えられた後の元町です。
と言うか、元町がそこまで焼けたなんて知らなかったきがします。

母親が20年代半ばに元町に戻り、その数年後に父親が会社に勤めるようになりました。
その頃はまさに復興の真っ最中だったんでしょうね。

なので、もう生活ができてる元町の印象しかなかったんです。

他に印象が残ってるのは、母親が言ってた、

「元町の通りにチャーチルやルーズベルトの顔を描いてあって、それを踏んで通るようになってた」

ことです。

主に聞くのは戦後の元町での母親達の生活のこと、そしてその「鬼畜米英」の踏み絵のことだったので、今回聞いたジュラルミン街は本当に新鮮でした。

それと、「あさや」さんのモデルですが、ドラマでは元町になってましたが、事実は三宮センター街のようです。
あのあたりも焼け残ったのかな?
また父親に聞いてみようと思います。

ロバのパン屋と「コロちゃん」 ~ひよこの聞き語り(16)

昨日、戦後の元町のことをちょっとだけ書きました。

戦後、二十年代半ばぐらいに母達は広島の竹原から神戸に戻ってきて元町に居を構えました。
その後、母は高校を卒業後、元町にある会社に就職したんですが、家から歩いてすぐなので、お昼ご飯は帰って来て食べる、ようなこともあったようです。

会社でお昼ご飯を食べた時の話もしていたので、その日によって違ったのかも知れません。
そのお昼休みの話を今日は書きたいと思います。

タイトルに「コロちゃん」と書いてますが、ちょっと記憶があやふやで本当に「コロちゃん」だったか、それともひょっとした名前だったかも知れませんが、「コロちゃん」だったと思うのでこの名前でいきます(笑)

母(と父親も母の後から入社した会社ですが)の勤めていた会社で、みんなで飼ってるような犬がいたんだそうです。
今ほどきびしい時代ではなかったので、つないでおくとかそういうのじゃなく、なんとなく会社に住み着いたのかも知れません。
その犬が、おそらく「コロちゃん」でした。

この子がとても賢い子で、自分でおやつを買いに行ってたんだそうです。

当時、元町に「ロバのパン屋」が来ていて、

「ロバのおじさんチンカラリン、チンカラリンロンやってくる」

と、歌を流しながら元町にもパンを売りに来てたんだそうです。

「ロバのパン屋」とは、ちょっと聞いたところでは今も車で移動販売のパンを売っているらしいのですが、当時は本当にロバが荷車?をひいて売りにやってきてたパン屋さんです。

その歌が聞こえたら、母も含めた会社の人が「コロちゃん」に確か「5円」をくわえさせてやるんです。
そうしたらそのお金をくわえて「ロバのパン屋」さんまで行って、蒸しパンをくわえて帰ってきて、おやつを食べていたんだとか。

すっごく見たいですよね!
今は、リードをつけないで犬を離すなんてダメですが、それは戦後の時代のこと、普通にそのあたりを飼い犬もうろうろしてたりもしたんでしょう。
毎日のように自分でおやつを買いに行っていたようです。

犬が来ても売ってくれるパン屋さんもいいし、まだまだ混沌としてただろうけど、のんびりしたところもある時代だったんでしょうね。

おそらく、昭和三十年になるかならないかぐらいの時代のこと、これから日本がどんどん経済成長していく時代の、ちょっとほっこりするお話でした。

戦後の元町 ~ひよこの聞き語り(15)

今朝の「べっぴんさん」で戦後の元町の風景が出てきました。

「出てきた」と言っても、「空襲で焼けなかった」という話と、町らしき風景が出てくるだけですが(笑)

母親とその一家は戦後この「元町」に住んでいました。
元々、戦争が始まるまでは「上筒井」というところに住んでいたんですが、軍に「接収(国や軍に取り上げられること)」されて荷物を借りた家に移すまではそこでした。

今も、私の本籍地もそこになったままです。
戦争と戦後の混乱で変更することがないままきてしまったのか、それとも、いつかはそこに戻ろうと思っていたからか、母の本籍地がそこのまま残っていたもので、四国から神戸に来た父親もそこを選び、私の姓になったクマ旦那さんも自然にそのまま、今は「神戸市中央区~~」の住所のままです。
ちなみに、今はそこはテニスコートになっています。

とにかく、「上筒井」に住んでいたんですが家を取られることになり、それをきっかけに祖母と一番上の伯母と伯母の娘、二番目の伯母、母と叔父が上の伯母の夫の実家のある広島の竹原市に疎開することになりました。
祖父は仕事があるのでそのまま神戸に残ることになったんですが、その家に元々の荷物を移したらその夜に空襲があり、皮肉なことに移った先の家が焼けてしまいました。
長男である伯父は大学があって京都にいたので、女子供だけが疎開することになったんです。

戦後、理由は分かりませんが、元の「上筒井」ではなく「元町」に家を構え、疎開先から戻った母達もそこで生活することになります。
当時、母は高校生で、そこで高校を卒業し、就職し、就職先で父親と知り合って結婚して家を出るまで「元町」に住んでいました。

「元町」の家もその後再開発で立ち退くことになります。
「元町」で住んでいた家の跡にも行ったことがありますが、今は駐車場でした。
えっと、そういう場所にばっかり住んでたみたいですね、今はテニスコートだの駐車場だの(笑)

今もそうですが、当時も「元町」は商店街で、少し離れたところに「さくらバー」という飲み屋さんがあり、そこにはアメリカ兵とかも来ていたようです。
今ではビリヤード場と言いますが、当時は「玉突き場」と呼ばれていたようで、点を入れるたびに「いって~ん、にて~ん」と、そろばんのような点数つけ?をはじく女性の声が聞こえていた、とか。

「アメリカ兵がどこかのお店と間違えて、靴のままで家に上がってきてびっくりした」ようなこともあったようです(笑)
以前書いた(「アメリカさんと祖母」)、祖母がアメリカ兵に「ママサンベビサン?」と呼びかけられたのもこの「元町」の家です。
アメリカ兵が来ると「ハローが来た」と言っていたというので、ごく普通に「元町」をアメリカ兵がうろうろしていた時代だったんでしょうね。
ドラマでもアメリカ兵がちらちら見えるでしょうか?

「上筒井」は住宅地のようで、「竹原」はいなか、そこから商店街に引っ越したんですから、一気に賑やかな場所になりましたね。
裏に住んでいたちょっと個性的な住人さんとの話も聞きましたし、祖父も祖母もその家で亡くなってますから、母から聞いたかなりの話がこの「元町」が舞台だったりします。

「べっぴんさん」のヒロインは、この「元町」から「ファミリア」の第一歩をスタートします。
母達が戻った頃にはもう「元町」で商売をされていたようですので、ひょっとしたらすれ違ったり、場合によっては仕事で接触があったかも知れません。
何しろ会社の近くでしたし。

これからどんな「元町」が出てくるか分かりませんが、母がいたら、ドラマを見ながら色々話せたかもなあと思います。
父も、昭和二十年代半ばからの「元町」を知っていますから、ドラマを見ながらああだこうだと話すのを楽しみにしています。

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アメリカさんと祖母 ~ひよこの聞き語り(7)

うちの両親やその家族に関わらず、第二次大戦を経験した方はまだいっぱいいらっしゃいます。
最低でも70歳以上ですけど。

昨日まで敵だと言ってたアメリカ軍がいきなり周囲に出現したり、今までの価値観がひっくり返されたり、そういう経験をしたことがないので、どんな気持ちだったのか、とかは想像するしかありません。
私も両親やその兄弟達からちらほらとは聞いてますが、それでも、ぐっと遠くの出来事、みたいな感じではあります。
そんなエピソードを一つだけ、ちょっと笑いを交えて(笑)

やはり母方の祖母のことなんですが、当時の普通のお母さんがそうだったろうと思えるように、やはり「鬼畜米英」を教えられていたもので、戦争に負けたと知った時は覚悟をしたようです。

「もしも、アメリカやイギリスが日本に上陸したら、お母さんはあんたらを殺して私も死にます!」

と、子供達に言っていたそうです。

結局、そういうことにはならずに済んだんですが、自分の子供にそういうことを言う気持ちはどうだったのか、想像するだけでも苦しいです。
そして、うちの母達は幸いにもそうならずに済んだんですが、実際に家族で自決された方もいらっしゃるんですよね・・・
「そういう時代だったんだ」で済む話ではありません。

ただ、うちの母の家族はその後数年して神戸に帰って来て、また家族みんなで暮らせるようになった、幸せだった、運が良かったと思います。

終戦の日、母達は広島にいたんですが、神戸に帰ってきて元町に住みました。
戦前に住んでいた家は国に接収されてそのまま戻ってこなかったんです。
それですぐに帰れなかったのかも知れませんね。

とにかく、帰った頃には小学生(正確には国民学校生)だった母が女学校を経て高校生になっていました。

元町には進駐軍も多くいたようで、うっかりと靴をはいたままで家に入ってこられた、ようなこともあったようですが、何にしろ「鬼」「悪魔」と思っていたアメリカ兵と接触する機会も少なからずあったようです。

ある日、祖母がおじさんの娘(祖母にとっては2番目の孫で私のいとこ)を抱いて家の外に座っていたら、アメリカ兵が近寄ってきて、

「カワイイベビサン、コノヒト(いとこを指さし)ママサン(祖母に)?」

と、片言の日本語で聞いてきたんだそうです。

そしたら祖母が、

「のーのー、この人(自分を指さし)ベビさんのーのー、この人(おじさんの奥さんでいとこの母親を指さし)ベビさんね」

と、ニコニコとアメリカ兵に答えた、んだとか。

たった数年前まで「来たら死ぬ!」とまで思っていたアメリカ兵にこの対応(笑)

祖父は英語を話せたらしいですが、祖母は時代的にもおそらく小学校か高等小学校しか卒業してなくて、それほど高度な教育は受けていないはずです。
なのにこの順応力(笑)
多分、たった一回の邂逅ではなく、ちょこちょことそういうこともあったんでしょうけどね。

神戸の元町という土地柄、そして祖父の仕事柄周囲に進駐軍の人が多くいた関係もあるんでしょうが、

「柔軟だなあ」

と、感心しました。

私だったら、殺されるとまで思った相手にそうできるかなあ。
できるような気もするし、できないような気もします。
その時にならないと分からない、かな。

ただ、祖母のエピソードの一つとして何回も聞き、そのたびに、

「おばあちゃんおもしろいなあ」

と思っていました。