いきなりの地震

昨夜、お風呂に入って出てきてテレビを見たら熊本で大きな地震が!

びっくりしました。
だって、こちらでは何もなかったし、ちょうどニュースが入った頃はお風呂でしたから。

阪神淡路の時には文字通り渦中にいて自分で体験したので知っています。

東日本の時には、気づくか気づかないかぐらいですが父親と「揺れてる?」と言っていたら、当時仕事で大阪だったクマ旦那さんが、

「大丈夫!!!」

と、仕事を抜けて電話してくるほど、大阪のビルだったのでかなり揺れたらしい。

そうやって、今まではなんとなく「地震があった」というのを知ることができたので、今度は本当にびっくりしました。
震度7の地域があるのに、ゆっくりお風呂に浸かってたんですから。

残念なことに人的被害も出たようです。
阪神淡路や東日本ほどの被害にならなかったのは幸いですが、それは数の上だけのこと、実際にご家族を亡くされた方やご自宅をなくされた方、まだ避難所にいる方には百パーセント自分の上のことですから・・・

災害が起きるたびに思うのと同じことを今回も思わずにはいられません。

どうかできるだけ被害が小さく、できるだけ早く被害に会った皆さんが通常の生活に戻れますように!

ホットドッグ

うちの父親にはお気に入りのパンがあります。
それを、やはりお気に入りのパン屋さんで買い、冷凍したのを毎朝焼いて食べてます。

そのパン屋さん、毎月決まってサービスデーがあるもので、その日にちょっとまとめ買いをし、店の冷凍庫に入れてあります。
せっかく大きい冷凍庫あるんだしね(笑)

今週末がそのサービスデーなんですが、惜しいことに、今回はあと2日残してパンがなくなる計算でした。
父親はそこそこ分厚いのを毎朝決まって2枚食べるので残りが計算できるんです。

できればその日に買いたいからどうしようかなと考えて、久しぶりにホットドッグを作ることにしました。

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気がつけば我が家のホットドッグはこれでした。

小さく切ったキャベツを炒めて(私は塩炒りすることが多いですが)ケチャップで和え、そこに切ったソーセージを焼いてはさみます。
パンには辛子バターとケチャップ、それからオーブントースターで焼いた後でまたケチャップとマスタード。
今朝はマスタードを切らしてたのでマスタードなし、ちょっと色がさびしくなりました。

ずっと家で食べるのはこれだったもので、ホットドッグってキャベツとソーセージが挟んであるもの、という意識があり、ある時映画を見てびっくりしたことがあります。

その映画では、主人公がスタンドのホットドッグ屋さんからホットドッグを買うんですが、お店のおじさんがほかほかと蒸したパン?を箱から取り出し、パンと同じ長さのソーセージ、やっぱり蒸してあるのかな?それをトングではさんでパンにはさみ、そのまま主人公に渡したんです。

「え、ケチャップも野菜も何もなし???」

本当にびっくりしました。
あのまま食べておいしいのかな?と思いました。

その後、コストコに行くようになり、フードコートで例のでっかいホットドッグ!を食べて、

「ああ、なるほど、こういうことか」

と、納得しました。

コストコのホットドッグ、まさにあの映画で見たまま、パンにソーセージをはさんだだけで渡してくれますよね。
それに自分でキャベツやピクルスやケチャップ、マスタードをかけたりはさんだり。
なるほど、ああいうのがアメリカ風なんだなあ。

もっとも、コストコだけしか知らないのでアメリカ全部がそうかどうかも分かりませんが、長年の謎がコストコのおかげで解けた気はしました(笑)

お父さんお母さんお父ちゃんお母ちゃん ~ひよこの聞き語り(4)

皆さんはご自分のご両親のことをなんて呼んでらっしゃいますか?

「お父さんお母さん」?
「お父ちゃんお母ちゃん」?
「パパママ」?
それとも「とと姉ちゃん」みたいに「ととかか」?

色々な呼び方があると思いますが、私は、いい年になった今でも基本は「パパママ」だったりします(笑)

なぜかと言いますと、母の一番上のおばさんが、

「今頃はみんなパパママやからそう呼ばせんとこれからはかわいそう」

と主張したらしく、私も妹も、それから母方のいとこ達、おばさんの孫まで全員最初は「パパママ」でした(笑)

その後、成長するにしたがって色々と変わってきたんですが、私は最後まで抜けなかったですねえ。
抜けなかった理由もあるんですが、それはまた後日にでも。

今日はうちの母方の兄弟姉妹がどう呼んでたのか、を書きたいと思います。

私が生まれるずっと前に母方の祖父母は亡くなっているので、もちろん自分でそう呼んでるところを聞いたわけではありませんが、母がその兄弟姉妹と話してるのを聞いていたのを思い出したら、そう呼んでいたなあ、と思う呼び方があります。

まず一番上、長女のおばさんですが、「お父さんお母さん」でした。
母達に話す時に「お父さんが」「お母さんが」と言っていたのを覚えているのでこれは間違いありません。

次に2番目、長男のおじさんですが、「お父さんお母さん」と「親父おふくろ」でした。
おそらく最初は「お父さんお母さん」で、成長するにしたがって「親父おふくろ」になっていったんじゃないかな。
男の人は多いですよね。
でも母達と話す時には「お父さんお母さん」だったので、そっちの方が多かったんだろうと思います。
実際に祖父母を呼ぶ時は「お父さんお母さん」だったようにも思えますね、おじさんの性格から言って。
母達と話す時に「おふくろが」とか言ってるのは、聞いたことがあるようなないような・・・

次に母のすぐ上のおばさんですが、「お父さんお母さん」と「お父ちゃんお母ちゃん」が混じってたような気がします。
なんでかな?
ひょっとしたら、相手によって変えてたのかな?
母と話してる時は「お父ちゃんお母ちゃん」だった気がするので、なんとなくそう思いました。

そして次がうちの母親ですが、「お父ちゃんお母ちゃん」でした。
私達に話をする時には「おじいちゃんが」とか話すこともありましたが、自分のことを話す時なんかには「お母ちゃんにこうしてもろた」みたいに言ってましたね。

そして母の弟、末っ子のおじさんは、おそらく最初は「お父ちゃんお母ちゃん」だったんでしょうが、私が呼び方を聞くようになってからは「親父おふくろ」としか言ってるのを聞いたことがありません。
だから、ひょっとしたら「お父さんお母さん」だった可能性・・・う~ん、あるんだけど、うちの母親が「お父ちゃんお母ちゃん」だったから、おそらくかなり低いですね、可能性(笑)

祖父母自身はお互いのことを「お父さん」「お母さん」と呼び合っていたらしいので、どうしてうちの母親が「お父ちゃんお母ちゃん」なんだろう?と、ちょっと不思議。
なんででしょう?
でももう、聞ける相手もいないので、不思議なままに置いておくしかないんでしょうね。
唯一残ってるおじさんも多分覚えてないだろうし。

祖母と婚約者 ~ひよこの聞き語り(3)

先日(「とと姉ちゃんを見て祖父を思う」)と昨日(「祖母のこと(1)」(レースの手袋と祖母に改題))で祖父母のことを書かせていただいたんですが、これからはまとめて「ひよこの聞き語り」として書いていこうと思います。
なので順番として、前のを(1)と(2)として、今日から祖父母達のことを書く時は(3)(4)と続けていくことになります。
どうぞよろしくお願いします。

さて、せっかくシリーズ化(笑)したので、昨日と続けて祖母のことを書きたいと思います。

祖母は、昨日も書いたんですが、神戸で生まれ育ちました。
その後、私の母方の兄弟姉妹も、途中で疎開や学校などで離れることはありましたが、基本的には神戸の生まれ育ちです。
私の代で三代目なので、江戸っ子と同じく一応神戸っ子になりますか。
今は市としては神戸からちょっと離れてしまってるんですが、活動地域が半分神戸ということと、本籍地は神戸のままなので今でも神戸っ子を名乗っておりますが(笑)

祖母はおそらく5人姉妹の下から2番目か3番目、と昨日も書きましたが、そのへん私はちょっとよく分かりません。
祖母の一番上の姉と下の妹は私も直接知ってるしかわいがってももらったんですが、祖母を含めた中のおそらく3人は、私が生まれるずっと前に亡くなってしまってるからです。

それに、何しろ母が一番上の伯母とは15歳も離れているし、祖父母ともそう長命ではなかったので、あまり知るところがないんですね。
なので全然知らなくても不思議じゃないところを、母や伯父伯母やその他の人から色々聞いていて、しかもそれを結構よく覚えているので、高松の叔父が「知らないことがあったら私に聞け」と言うぐらいだったりします(笑)

そんな祖母のことでこれも大きく記憶に残ってることがありますので、今日はそのことを。

どういう経緯かは分かりませんが、祖母には祖父と結婚する前に婚約者がいたそうです。

これもまたどういうことからかは分かりませんが、その方がお仕事か何かで家を離れることが多かったのか、あまり帰ってこないその家に、行儀見習か花嫁修業かは分かりませんが、家事なんぞをしながら住むことになっていたそうです。

その婚約者さん、大阪の将校さんで、結構大きな家の方、良い人で男前でもあったそうですが、なぜか祖母はその方が帰ってくるのがとっても怖かったんだそうです。

「将校さんが帰ってくる時に軍靴がかつかつと鳴るのが聞こえるともう怖くて怖くて」

と言っていたそうなので、おそらく、その方個人と言うより軍人さんが怖かったのかも知れません。

何にしろ、怖くて怖くてそのまま結婚するということに耐えられず、ある夜、裸足でそのお屋敷(らしかったですよ)から飛び出し、そのまま神戸の花隈で料亭をしていた一番上の姉(私の大伯母)のところまで逃げて帰ってきたんだそうです。

その後、どういう話になったのかは分かりませんが、結婚の話はなくなり、そのまま姉のところで働くか、またよそに働きに行ったのかは分かりませんが、その時に祖父と知り合い結婚をしたそうです。
明治か大正のことなので、恋愛結婚ってそう多くなかったと思うんですが、そのあたりの詳しいことを聞けなかったのはちょっと残念(笑)

子供の頃にこの話を聞いて、

「ドラマチックだなあ」

と思ったのを覚えています。

祖父も祖母も話を聞く限り穏やかな方だったようなので、夜中に走って逃げてくる、なんて誰も思いもしなかったんでしょうねえ。

もしも、その時にその将校さんと結婚してたら、今、ここに私はいないかも知れません。
そう思うと逃げてくれた祖母に感謝、かしら?(笑)

レースの手袋と祖母 ~ひよこの聞き語り(2)

先日、母の父のことを書いてから(「とと姉ちゃん」を見て祖父を思う)、もっと自分の祖父母やおじおば達、一族の人達のことを書きたいという思いが強くなりました。

ずっとずっと前から思ってはいたんですが、なかなかそういうことって書きにくかったんですよね、なぜか。
ただ、高松のおじさんに、私がそういうことを一番知ってると言われて、自分でも忘れてしまわないように書きたいと思うようになりました。

もっともっと昔から、まだ母がいた頃から書いていたら、もっとたくさんのことが聞けたのにどうして書いていなかったのか、と悔しく思うぐらいです。

それと、私は元々父親ともよく話をしてきた方だと思うのですが、それでも、母ほどは話していなかったらしく、母が亡くなり、父といる時間が長くなって初めて、「そういうこと初めて聞いた」と思うようなことが出てきました。
男性ってあまりそういう話をしないからかなあ?
そういうことも、時々、思い出したようにここに書くことでとどめていけたら、と思いました。
自分でメモでもしようと思っても、なかなかできないんですよね、「いつでもできる」と思ったら。

今日はまず母の母、私の祖母のことを書きたいと思います。
先日書いた祖父の妻のことですね。

祖母は、神戸で生まれ育ったんですが、その母、つまり私の曾祖母は明石の造り酒屋の娘で、神戸に嫁いだらしいです。
母がまだ子供の頃に曾祖母は亡くなったんですが、5人の娘がありました。
その、下から2番めだったか3番めだったかが私の祖母です。

祖父は、先日も書いたように苦学の末にそこそこの地位に着いた方で、紳士と呼んでいいような方だったんだそうですが、祖母はそれでいくと「働き者」だったそうです。

こんなエピソードを聞いたことがあります。

ある日、どなたかがお歳暮だかお中元だか、もしくはまた何かの折のお届け物だかに家に来られたそうです。

「あの○○さんの奥様だから、さぞかしきちんとした奥様なのだろう」

と、思ったのかどうかは分かりませんが、残念ながら祖母はそんなきれいな格好できちんと座って刺繍なんぞするような奥様ではなく、いつも動きやすい格好でこまこまと働いているようなタイプでした。

そうしたらその方、祖母のことをお手伝いさんだと思ったみたいで、

「これを奥様に・・・」

と、祖母にお届け物を渡したら、祖母も祖母で、

「はい確かに奥様に渡しておきます」

と、受け取ったんだとか(笑)

訂正するのもめんどくさかったんでしょうね。
さすが私の祖母だ(笑)

小さい包みを開けてみたら、入っていたのはレースのきれいな手袋。
まさに貴婦人の持ち物ですね。
祖父の妻なので、そういうのが似合うご婦人だろう、とその方は思ってくださったのでしょう。

その手袋を見て祖母が言ったのは、

「こんなに穴がいっぱい開いた手袋もろても炭もつかまれへんし・・・」

だったそうです(笑)

その後、その手袋がどうなったのかは分かりませんが、笑い話として母から聞いた話です(笑)