精米失敗の原因

昨日はお義母さんにいただいたナスを「揚げ浸し」にしたと日記に書きました。
お義母さんには他にもいっぱい送っていただいてるんですが、一番たくさん送っていただくのはお米です。

栃木のクマ旦那さんの実家では、親戚の方から1年分まとめてお米を買ってます。
玄米で買って貯蔵しておき、必要になったら自分の家で精米して食べます。
それでうちにもお米を送ってくれるのです。
送料もかかるので申し訳ないけど、正直おいしいし、うれしいです。
ありがとうございます。

最初は精米したのを送ってもらってたんですが、クマ旦那さんが玄米を食べたいと言うので送ってもらって白米にする分だけ近所のコイン精米機で精米して、玄米と両方食べてました。
うちの父親が絶対に玄米が嫌なもので(笑)

正直、お米を持って行って精米してって結構大変です。
大体10キロ弱を持って行って精米してました。
10キロ単位で100円なので、できるだけギリギリを(笑)

ところが、もうすぐ1年になりますが、私が指を剥離骨折してしまい、その時からまた精米して送ってもらうようになりました。
ありがたや~

お義母さんに聞くと、一度に30キロ、玄米の袋1袋になるのかな、それだけずつ精米するそうです。
あちらで精米機を見てないので分かりませんが、結構大きい精米機みたい。

今は30キロを精米して半分をこちらに送ってくれてます。

「まだお米ある?そろそろ送ろうか?」

そう電話をいただいたら送ってもらってます。
足りなくなったら色々お米買ったりもしてますが、あちらのペースで送ってもらうようにしてるんです。

ところが前回、

「今回は精米に失敗して、なんか糠が落ち切ってないようであまりおいしくないの」

って。

精米が失敗、そんなことあるんですね。

どうしてかと思ったら、

「精米機が外にあるので暑さで動かなくなって中途半端になってしまった」

そんなことが!

暑さで機械が動かなくなるという話は聞きますが、まさかそんな形でうちにも影響があるとは思いませんでした。

「次はおいしいの送るから、我慢して食べてね」

って、何をおっしゃいますやら、おいしくいただきます。

とは言ったものの、本当に今回はちょっとパサパサした感じです。
こんなになるんですねえ。

しばらくはいつもより少しおいしくないお米をいただきながら、いつもおいしいお米をいただいてるありがたさを噛み締めます。
お義母さん、いつもありがとうございます。
秋の気配も見えてきたけど、まだまだ暑いから無理しないでくださいね。

おかあさんのやきなす

この夏は栃木のお義母さんから3回もナスを送っていただきました。

「キュウリやスイカは全滅して」

って、お義母さん、ナスだけで十分ですよ!

野菜だけじゃなくお米やおすそ分けの洗剤やサラダ油、醤油、その他いっぱい送っていただいてます。
ありがたいけど送料がかかるので申し訳ない。

せめて傷まないうちにおいしくいただかないと。
とは思うものの、何しろ量が多い(笑)
がんばって食べないと痛んでしまう。

それで作るのが、

「ナスの揚げ浸し」

です。

常備菜に作っておいたら、みるみるうちに減ってしまってなくなりますから(笑)

今夜は「ナスの油炒め」を作ったんですが、その前にフライパンを使って「揚げ浸し」をいっぱい作っておきました。
大きな容器いっぱいいっぱいに作ったけど、何日ぐらいもつかしら?
日曜日までにはなくなってる気がするなあ。

これ、クマ旦那さんの大好物なんです。
こちらに来た時に「皮がついたままの焼きなすが好き」って言ってて、どんなのかと思ったら「揚げ浸し」と言うか「焼き浸し」と言うかで、栃木に行った時にお義母さんに作ってもらって正体が分かりました。

今夜も油炒め以外にもうれしそうに食べてました。
おいしいうちにおいしくいただきましょうね。
お義母さん、ごちそうさまです、ありがとうございました。

どんなことをしても生きて帰る!~ひよこの聞き語り(47)

先日、アメリカに住んでいて日系人収容所に入ったことのある伯父さんから聞いた話を書きました。
今日はまた違う伯父さんから聞いた話を書きたいと思います。

こちらの伯父さんは母の姉の夫です。
同じ市内に住んでいて、よく話をして色々聞かせてもらいました。
大抵が四方山話で戦争の話ばかりじゃないですけどね。

伯父さんは戦争の時中国に送られていました。
ちょっと今正確なことが思い出せないんですが、その時は多分十代後半から二十代前半ぐらいだったので、初年兵の二等兵から招集されたんじゃないかな、と思います。

入営して中国に着いてからは、よく映画やドラマで見るように厳しい状況だったようです。
誰かが失敗するとみんな並んで順番にビンタを食らわされたりして、すごく辛かったと聞きました。

中国のどのあたりにいたのか分かりませんが、兵営で毛布をかぶって寝ても、朝になったら隙間から吹き込んでくる黄砂で真っ黄色になっていたとか、どういう状況なのか想像もつかないんですが、

「だぶんだぶん(って言ったと思う)な地面があった」

というのがすごく記憶に残ってます。

私のイメージではテレビの実験で片栗粉にちょうどいい量の水を入れると上が歩ける、だったかな、そういうのを見たんですが、そんな印象です。
止まると沈むのに歩くと歩ける、ありますよね、そういう土地だったみたいです。
そこを車で走ると通れるんですが、足で降りるとずぶずぶ入るって言ってたような気がするので。
そういう不思議な土地がいっぱいあった、と教えてくれました。

とにかく戦争で行ってたのに、

「死ぬまでにもう一度行ってみたい」

と言っていました。

言っておいでよと言いつつ、行かないまま亡くなってしまいましたが、伯父さんにとってはそれほど魅力的な場所がいっぱいあった場所でもあったようです。

そんな伯父さんでも、やはり戦争ですから死ぬような目にも何度も会っているそうです。

「お昼はニコニコして挨拶する中国人が夜になったらゲリラになって襲ってくるのは本当に怖かった」

とも言ってました。

不思議な感じですよね。
私だったらお昼にニコニコはできないなあ。
襲ってくるのも日本兵憎しというより強奪が目的だったような、そんなことも言ってた気がする。

ある時も敵軍からかそういうゲリラかちょっと忘れましたが襲撃を受け、伯父さんはとにかく敵から見えないように低く低く、存在感を消しながら地面にできるだけくっついて、最後には、

「ヘルメットのつばでさらに土をかいてもっと低く低く潜ろうとした」

ぐらい必死で隠れたことがあったそうです。

そして、

「どんなことをしても生きて日本に帰ると決めた」

そうです。

みんな生きて帰りたいと思ってたと思います。
そして叶わずに帰れなかった人もたくさんいらっしゃいます。
思いだけ叶うことではないんですよね・・・

伯父さんは一生懸命考えました。
どうしたら生きて帰れるかと。

「それで思いついた、できるだけ本部に近いところに配属されたらええんや」

戦闘の時、やっぱり前衛から攻撃に行くんでしょうね。
本部は生き残らなくてはいけないから、そこにいたら最後まで生き残るチャンスがある。

伯父さんはとても字が上手でした。
そして計算とかもできたのかな。
そういう能力があるということを、事あるごとにアピールして、なんと、本部付きの事務方に配属されることに成功したそうです。

そして運もあるでしょうが、無事に終戦を迎え、生きて日本の土地を踏むことができました。

私が直接話をしたことのある親族で、戦争に行ったのはこの母の姉の夫である伯父さんと父の兄である伯父さん2人だけです。
少しばかりの話ですが、それでも一番話を聞いたのはこの伯父さんで、そのことをまた少し書いてみたいなとも思いました。
生きて帰ってくれたからこそ聞けたこと、重要だなと思ったので。
次の「聞き語り」もそのエピソードを書くと思います。

夏の虫、秋の虫

台風の影響はほぼなかった当地ですが、その後の雨で一気に秋になってしまったかのようでした。

昨日の朝、家中の窓を開けようとしたら風もひんやりして、外も曇りでどんより。
前日まで夏だったのに一気に秋。

なんでしょう、ここ何年もこんな感じですね。
季節が徐々に移動するという感じが少なくなってるみたい。
それにしても、秋になるのは早すぎる、まだ20日ですよ。
いつも夏から冬にいきなりなると思ってたけど、今年は秋が長いんでしょうかね?

昨日はお友達のお誕生日だったのでおめでとうメールを送ったんですが、そのやりとりでも「こんなお誕生日珍しいよね」という話になりました。

夜、お風呂に入ってたまたそれを顕著に感じる出来事が。

秋の虫の鳴き声。
前日までセミの声だったのにいきなり!
今は朝でまだセミの声がしてますが、こんなにいきなり交代したのもほとんど経験がありません。

人間って勝手なもので、あれだけ暑い夏は嫌だと言ってたのに、これで夏が行ってしまうのはとってもさびしい(笑)

もうちょっとだけセミにがんばってもらいたい。
そして夜には少しずつ秋の虫の声が・・・
こういうのがまた戻ってきてほしいものですよね。

伯父さんがいた日系人収容所~ひよこの聞き語り(46)

今朝のニュースでアメリカの違法移民収容所に対するデモ?をやっているというのを見ました。

難しい問題だと思います。
自分の国では生きていけないから自由な国に行きたい。
でも受け入れる国にも限度がある。

来る人にもよるとも思います。
郷に入っては郷に従えならいいけど、そこを自分のいいように変えてしまおうとされたらやっぱり反発も出ますし。

それで思い出したことがありました。

私の伯父さんはアメリカで日系人収容所に入っていた経験があります。
伯父さんですが、血のつながりはなく、伯母さんの結婚相手の伯父さんです。

伯父さんは家族の半分とアメリカに渡って牧場をやっていたそうです。
残り半分は日本に残っていて、戦後、そこに帰ってきてうちの伯母さんと結婚しました。

少し話がずれますが、この結婚がちょっと面白いものでした。
元々、姉妹の姉の方が弟と結婚していて、その人の兄である伯父さんが日本に戻ってお嫁さんを探していて、妹の方の伯母さんと結婚したのでした。
なのでどっちが兄でどっちが弟?どっちが姉でどっちが妹?な関係になってました(笑)

そういう関係なので伯父さんと伯母さんはかなり年齢が離れてました。
大家族の父親の姉ですが、伯母さん同士も結構年が離れてましたし。

伯父さん達は住んでた場所もうちとはそこそこ遠かったので、ゆっくり話を聞いたのは高校生の時、妹と2人で遊びに行かせてもらった時だけです。
親戚の冠婚葬祭にも、伯父さんはもうそこそこ高齢だったので伯母さん一人で来ることもあって、そんなに回数は会ってませんでしたから。

伯父さんの家に着いてびっくり。
その頃の私から見たお年寄りの家って純日本風、例えばこたつがあって和室でだったんですが、さすがアメリカで育っただけあってもろに洋風だったんですよ。
和室もあったと思うけど、伯父さんはリビングのソファで寛いで、アメリカ映画に出てくるアメリカ人みたいに生活してました。
いとこに親戚の写真を見せてもらったけど、やっぱり外国人は多く混じってたのも面白かったなあ。

その伯父さんと色々話をしていて、何の流れからか「日系人収容所」の話になりました。

伯父さんの話を要約すると、色々な収容所があったようだが伯父さんのいた収容所はかなりフレンドリーで好意的で、収容するというよりは守ってくれてたような感じだった、というようなことを言ってました。
閉じ込めてすまない、みたいな感じだったと。

「食べ物や物資も豊富で牛乳なんか有り余るほど配られて、残して減らされると困るから使い切るために若い奥さん達は牛乳風呂に入ってお肌つるつるだった」

ですって(笑)

戦時中の話、これはなかなか難しい話だと思います。
楽しい時代だったわけがない。
命の危険もありますし、家族を失ったりもしてる。
なので楽しい話をしてもそれが全部ではないでしょう。

ただ、戦争の時代だからと言って笑えることがなかったわけではない。
普通の人の生活がそこにはありました。
漫画で映画の「この世界の片隅に」に描かれてるように、日常の生活があったんですよ。
私が家族、親族から聞いたのは、その日常に近い部分が多いと思います。

アメリカにいた伯父さんも、いくらフレンドリーだったと言われても、国から命令があって日系人を殺してしまえ!と言われたらその好意的な人達の銃口が自分に向くかも、という意識はあったと思いますし、心の底から安心して収容所にいたわけではないと思います。
そう思うとやっぱり普通の時代ではないけれど、それでもそういう事実もあった。

私の伯父さん達、血縁がある人もない人も戦争で亡くなってます。
会ってないけど、会ったことはないけど確かに存在した人達で、私の親やおじさんおばさん達にとっては兄弟で、いとこ達にとっては親です。
そんな近い人が亡くなってるんですよね、骨も戻ってこず、最後の様子もよく分からずに。

ただ、そんな中にも普通の生活は確かに存在してた、と私はそんな人達から聞けて幸運だと思います。
戦争だけではなく人間がいたんだ、と感じることができますから。

そして人間がいなくなるような、存在を見えなくなるような戦争はもう決して起こってほしくない。
そう思ってることだけは確かです。