「ひよこの聞き語り」カテゴリーアーカイブ

阪急電車と祖父 ~ひよこの聞き語り(23)

前回、前々回と、曽祖父母の話を書きましたが、今日は1代進んで母の父である祖父のことをちょっと書きたいと思います。

祖父は前々回書いた広島から神戸に来た曽祖父母の息子です。
実は上にお兄さんがいたようなんですが、若くして亡くなったので一人っ子みたいなものだったのかな?
祖父の兄弟姉妹の話は聞いたことがありません。

両親と神戸に出てきて、そう裕福な生活はできなかったらしく、誰のだったか分からないんですが「書生」をやっていたそうです。

「書生」って分からない人もいるかも知れませんから、ちょっとだけ調べて説明を。
私もなんとなくしか知りませんので(笑)

本来は「学問をする者」だったようですが、明治・大正時代には、

「他人の家などに住み込みや家事、雑事をしながら勉強や下積みをする者」

の意味合いが大きかったようです。

私の印象もほぼそんな感じ。

とにかく、曽祖父母とどうなってたのかは分かりませんが、祖父は「書生」をして阪急系の企業で働くようになったらしい。
その時に、阪急電車や宝塚歌劇の生みの親の小林一三翁にもかわいがっていただいたのだとか。

祖父はとにかくきちんとしていて、教養があるだけではなく紳士だったようです。

見た目だけじゃなく、中身も曲がったことが嫌だったようで、こんな話を聞きました。

当時、阪急関連のどのぐらいの方かは分かりませんが、阪急電車に乗るのは無料だったとか。
祖父は多くの人に顔を知られていたので、何か書類とかを見せたりしなくても、改札の人が黙って通してくれるぐらいの人ではあったようです。

「お父ちゃんがさっと片手をあげたら駅員さんが頭を下げて、どうぞ、と通してくれてた」

と、母から聞きました。

そして、そういう人達の中には、家族を連れていたら家族も無料で改札を通し、無料で電車を使っている人も少なからずいたようです。
本当は会社の関係の本人だけなんですが、お偉いさんが家族を連れてきて一緒に通したら、駅にいる駅員さん達は何も言えなかったんでしょうね。
暗黙の了解のようになっていたようです。

ですが、うちの祖父はそういうのを嫌がってやりませんでした。

うちの母親も祖父と電車に乗ることがしばしばあったようなのですが、その時、祖父は母にこう言ったそうです。

「お父さんはこの会社の関係者やからただで電車に乗れます、でもあなたは家族で社員じゃないから切符を買って乗りなさい」

そう言って、母が自分で買ったのか、祖父が買って持たせたのか分かりませんが、家族にもいつも普通に切符を買わせていたそうです。

子供の頃から何回も聞きましたが、そのたびに、

「おじいちゃんは偉いなあ」

と、思ってました。

ルールはルールです、守るためにある。
強いものがそれを破るのは簡単だけど、強いから、上にいるからこそ、守らないといけない。
たったそれだけのことなんですが、守れない人のなんと多いことか。

ひょっとしたらそれを迷惑に思う人もいるかも知れない。
「自分だけは得したい」と人間だったら思わないことありませんもんね。
苦労してきた人だからこそ、不正はしたくなかったのかも知れない。

そして切符を買って祖父と駅に入ると、

「しばらくしてお父ちゃんがタバコを消すと電車が来る、不思議やなあと思ってた」

のだとか。

当時は駅でタバコを吸うのは禁止じゃなかった時代ですからね。
祖父は電車が来るまでの間しばらくタバコを吸ってて、そして灰皿でキュッとタバコを消すと電車が来る。
それがいつもだったのだそうです。

タネ明かしをすると、

「電車が来るちょっと前になると信号が赤から青に変わる、お父ちゃんはそれを見てタバコを消してたんやとそのうち分かった」

んだそうです(笑)

小さい母が祖父をじっと見て、そしてタバコを消すと電車が来る、不思議やなあ、お父ちゃんすごいなあ、と思ってたんでしょうね。
想像して、ほほえましくなります、今も(笑)

小町だった曽祖母 ~ひよこの聞き語り(22)

前回まで書いてた広島から神戸に出てきた曽祖父母ですが、これは母の父の両親の話です。

残念ながら、それ以外は全くどういう人だったのか聞いた記憶がありません。
「没落して広島から神戸に来たこと」と「長男を早くに亡くしていること」だけです。

今日は母の父方ではなく、母の母方の曽祖母のことをちょっとだけ書きたいと思います。
この方のこともほぼ知らないんですが、母からちょろっとだけ聞いてることがあるのでそのことを。

母の母の母である曽祖母は、どうやら美人だったそうです。
元々が明石の造り酒屋の娘で、若い頃は「江井ヶ島小町」と呼ばれていたそうです。

その小町さんがどういう経緯で神戸に嫁いだのかまでは分かりませんが、明治も後半ぐらいの時代のことなので、多分お見合いじゃないでしょうか。

ただ、うちの母親は、この曽祖母、母から見た祖母とはあまり合わなかったらしいです。
母が小学生の頃に亡くなったので、合うとか合わないとか言う以前じゃないかと思うんですが、少なくとも母は「嫌いだった」と言ってました。

どうして嫌いだったかと言うと、今はあまり使ってはいけない言葉を投げられていたから、だそうです。

うちの母は、私が知ってる大人になった母ですが、よく歌ったり踊ったりしてました。
どっちかと言うと陽気な人だと思います。

ただ、子供の頃はかなり難しい子供だったらしい。

例えば、母の兄弟姉妹は全員、そして私や妹も「生田神社」の氏子で、伯父伯母達は小さい頃にお祭りで「お稚児さん」をやってたらしいのですが、幼い母だけは断固として「嫌」と言ってやらなかったとか。
高校時代には演劇やってたり、大人になってからは社交ダンスやったりしてたらしいので、とっても信じられませんが、とにかくそういう子供だったとか。

そして曽祖母と会う時にもほとんど口をきかなかったらしい。

あまり今は使っていい言葉ではないんですが、時代的なことで、具体的にそう言われてたらしいので書きますが、あまりに話さないので、曽祖母からいつも、

「おまえはおしか?」

と、言われていたんだそうです。

会う度に言われ、

「それで余計に口をきかなかった」

と言ってたので、孫にそういうこと言う祖母も祖母なら、孫も孫だと思いますが、まあ、そういう感じだったとか。

それともう一つ、これは母の父方か母方かはっきりしないので、もしも祖父の母である曽祖母の話だとしたら、小町の曽祖母には大変申し訳ない間違いになるんですが、どうもこの方だったんじゃないかなと思うので、もう一つエピソードを書きたいと思います。

母には姉が2人と兄が1人、そして弟が1人います。
上から、女、男、女、母、男の順番なんですが、その1番目と2番目の間に1人か2人、そして上の伯母と母の間でも1人亡くなってるいるそうなんです。
1番上の伯母と2番めの伯父の間は7つ開いていて、その間で亡くなったのが男の子で、母のすぐ上で幼いうちに亡くなったのは女の子でした。
なので母は少なくとも4女になります。

その段階でまだ下の叔父は生まれてなかったので男の子は2番目に生まれた長男の伯父だけです。

そして4番目の女の子の母を産んだばかりの祖母が、まだ床上げもしてない時に曽祖母が、お祝いを言いに来てくれる見舞客に、

「また女ですわ」

と繰り返し言っていて、それを耳にした祖母はいたく傷つき悩んだらしいのです。

私の中ではそれもその小町の曽祖母だとずっと思っていたので、「美人だけど性悪な人」なイメージができてしまってます。
そもそも、祖父の両親の話は最初に書いた2つ以外聞いたことがない。

それでも、まだ戦前か戦時中のことですが、その曽祖母が亡くなる時にお小遣いをくれて、

「動物園にでもいっといで」

と言われ、多分下の叔父と2人でだと思うのですが、今はないけど諏訪山の動物園に遊びに行き、帰ってきたら亡くなっていたらしいです。

本当はどういう人だったのかなあ、もっとおじちゃんおばちゃん達にも聞いておけばよかった。
さすがに高松のおじさんは覚えてないと思うし。

ちなみに、その曽祖母の出身の明石のM酒造ですが、合併して今はそこそこの大きさの酒造会社の一部になっているのではないか、と聞いています。

私が高校の頃、まだ大伯母達が存命の頃、江井ヶ島にあるお墓の話をしていたので、あの時によく聞いておけば、ご先祖のお墓参りに行けてたかも知りませんね。
うちの母親は場所を知らないそうで、一番上の伯母だけが「江井ヶ島のおばあさまの家に行きました」と作文に書いてたのを知るばかりです。

どこにあったのかなあ。
広島はすぐに行ける距離じゃないけど、江井ヶ島は日帰りできるところなので、知らないうちに血縁のある親戚とすれ違ってる可能性もあるのかも、と思うと、ちょっと変な気持ちになったりしますね。

あ、最後の最後ですが、私には小町の片鱗もございませんのであしからず(笑)

「本家」と「分家」 ~ひよこの聞き語り(21)

前回、母方の曽祖父の時に「家屋敷」「家系図」「刀剣一式」を「100円」で売り払って神戸に出てきた話を書きました。

その売り払った相手なんですが、どうやら「分家」の方らしいのです。

ところがこの「分家」やら「本家」やらが、ちとややこしいのです。

元々うちのご先祖の方が「分家」だったらしいのですが、ある時、「本家」か「本家の跡取り」か分かりませんが、何か不始末をやらかして「廃嫡」され、その時からうちのご先祖が「本家」になったのだとか。
それからご維新の時までずっと「本家」だったんですが、没落し、全財産を売り払った「100円」を持って神戸に出てきた、ということらしい。

「らしい」ばかりで恐縮なんですが、私も「聞いた話」ばかりなので、うちはそれこそ「本家」ではないもので、「らしい」としか言えません。
ただ、「そうだったらしい」としか。

そして、その「分家」とも戦後しばらくまではお付き合いがあった「らしい」のです。

ある年、「分家」の方の結婚式があり、うちの母の兄、長男がその結婚式に呼ばれたのだとか。
そこで親戚の紹介の時に、あちらが「分家の○○さんです」と紹介されました。

その話を聞いて兄弟姉妹の一番上の伯母さんが大層憤慨し、

「うちが本家やのに!」

とぷりぷりしてたらしいのですが、肝心の出席した「分家」と呼ばれた伯父さんは、

「今の時代、もう本家も分家もない、だから「分家の○○です」と挨拶した」

と言って、さらに伯母さんが怒ったとか。

なんか、2人の性格が出てるなあと思って子供心に面白かったのを覚えています。

一番上の伯母さんだったら多分そういうの我慢できないだろうなあ。
そして伯父さんはバリバリの理系なので、本当に「そういうの関係ない」んでしょう(笑)

あちらの方にしたら、「元はうちが本家」と思っているところに、多分財産全部を「100円で取り返した」時に「本家」も取り返したと思っていたのだと思います。
だから、もしかしたら、結婚式にうちの伯父さん、「元本家の長男、後継者」を呼んで「分家の」と紹介することではっきりさせたかったのかな?

うちは、見事に一番上の伯母さん以外は「そんなの関係ねー」な、小島よしお的考えの人ばかりなので、伯母さん一人がぷりぷり怒って、他の人がほっとく、てな感じだったのだと思います(笑)

私ももちろん「本家」だの「分家」だの関係ない、ってな方です。
そもそも、そういうのがあったとしても、母が結婚して姓が変わってる段階で本当に関係ないし。

ただ、おそらくですが、広島の「本家」があったところには、ご先祖のお墓だとか、家屋敷の跡だとか、何か縁の痕跡があるかも知れないんですよね。
それだけは、ちょっと見てみたかったかもなあ、と残念ではあります。

明治時代の100円 ~ひよこの聞き語り(20)

毎朝「わろてんか」を楽しみに見ています。

2週目ぐらいに「ちょっとどうかな」と思った回もあったんですが、面白いですよね。
前回の「ひよっこ」もよかったし、連続で楽しいドラマに当たるとうれしいです。

その中で、主人公夫婦(ではまだないけど)が夢の寄席を手に入れるために「500円」という大金を必要になるシーンが出てきました。

その時、ナレーションの小野アナウンサーが、

「当時の500円は今の500万円ぐらいです」

というのを聞いて、

「あ、そうなのか、じゃあやっぱり100円かな」

と、思ったんです。

うちの母方のご先祖は広島の浅野藩の家臣でした。
それが、明治維新で没落し、「家屋敷」「家系図」「刀剣一式」をまとめて売り払い、そのお金を持って神戸に出てきたのでした。

その「全部を売り払ったお金」が「100円」でした。

ずっとどのぐらいかなあ、と思ってたんですが、思うだけできっちり調べもせず、そのうちに「100円」だったのか「1円」だったのか「1万円」だったのかすら忘れてしまいました。
知ってる人がいたらよかったんですが、あいにくともうみんないなくなってしまってて。
高松のおじさんに聞いても、多分「そんなん知らん」とか「そんな古い話どうでもええがな」とか言いそうだし(笑)

多分「100円」だったはず、とは思ってました。
でも「100円」か「1万円」か「1円か」が混乱してしまった。
記憶の中に「1000」という数字がなかったので、おそらく「100円」か「1円」のどちらかだとは思ってたんですが、この価値観でいくと「1円」だと「1万円」で、さすがにそんなに安く「家屋敷」「家系図」「刀剣一式」を売り払うことはないですもんね。

母の兄弟姉妹で存命なのはもう高松のおじさんだけなんですが、おじさんに言わせると、

「自分よりよう知っとうから分からんことは○○(私のこと)に聞いた方がええ」

ぐらいなので、何かあるとこうして書き残していこうと思い、ちびちびと書いてます。

戦後、いつぐらいかは分かりませんが、一番上のおじさんが、関西のデパートで開催された「刀剣の展覧会」でご先祖様の刀を見てきたそうです。
今は、どこで誰が持ってるのかなあ?
ちょっと知りたくはありますが、もう分からないだろうなあ。

土砂崩れに飲まれた祖父と伯父 ~ひよこの聞き語り(19)

今年はあちらこちらで大雨の土砂崩れやらなんやら、大変な被害が出ています。

一箇所が落ち着いたら次は他の場所で警報、の繰り返し、本当にどうなってるんでしょう。
幸いにも当地方では被害らしい被害は出ていないようですが、ほんの少し北に行くと同じ県内でも大雨が降っていたようです。

「あっちこっちで土砂崩れとかあって怖いね」

と、父親と話していたんですが、ふと思い出しました。

父親が子供の頃、いなかでも水害があったんだそうです。
うちの父親が小さい頃なので、もう80年ぐらい前になります。

その時に、まだちびだった父親は家にいたんですが、祖父と父親のすぐ上の伯父さんがタバコの葉っぱを入れてあるタバコ小屋の様子を見に行って、そこで土砂崩れに飲み込まれました。

運良くどちらもすぐに土砂崩れから逃れて出て来ることができて助かったんですが、すぐに入院してしばらく病院にいたそうです。

祖父からはそういう話を聞くことはできませんでしたが、伯父さんが話してくれたのは、

「退院してからもしばらく、咳をしたりすると木片とかがどこかから出てきた」

んだそうです。

幸いにも飲み込まれた大部分の人が助かったんですが、1人だけ女性の方が行方不明になりました。

あっちこっち探したんですが見つからず、行方不明になってから一週間だか十日だか経った頃、

「あそこに人魂が出る」

と、噂になったところを探してみたら、そこから見つかったんだそうです。

オカルトとかではなく、人間は死んで腐っていく途中でリンが出てきて、それが燃えたようになって人魂が出る、というのが本当だった、と父親が言ってました。

「一度死に損なった人は長生きする」

と言われるんですが、祖父は96歳まで、伯父さんは88歳まで生きたので本当かも知れません。

でもやっぱり土砂崩れは怖いです。
「まだ大丈夫だろう」ではなく、「もしかしたら」と早めに逃げること、を心がけるようにしないといけない、とあらためて思いました。

大きな台風も近づいてくる可能性があります。
少しでも被害が少なくありますように。