お箸が立つ雑炊 ~ひよこの聞き語り(28)

前回、前々回は戦時中の食事事情?のことを少しだけ書きました。
今回も食事のことです。

戦時中は色々な食べ物が配給制だったらしいのですが、その他にも「配給切符」のようなものがあったらしいです。

ただ、その「切符」を持っていても確実に食べ物が手に入るわけではありません。
多分、まだ神戸にいた頃かなあ、神戸の空襲より前のことじゃないかと思いますが、その「切符」にまつわる話を聞いたことがあります。

母の一番上の伯母さん、一人だけ年が離れた姉なので、母とは15、叔父とは18の差があります。
ほとんど親子みたいなものですね。

2番目に長男の伯父が生まれるまで、一人っ子のお嬢さんみたいに育った人なので、なんというか、まあ色々とかわいらしかったり色々逸話があります。
もしかしたら、祖父の一番いい時代に育ったからかなあ。

母や叔父ともそれだけ年が離れてるのにケンカしたり、色々あったようですが、

「配給の噂とかをどこからか聞いてきて、一緒に連れて行ってくれてた」

らしいです。

「切符」があっても長時間並ばないと手に入らない物も多いのに、

「どこどこのなんとかいうお店でお箸が立つ雑炊を出すらしい」

とかの情報を手に入れてきて、母と叔父を連れて長時間並んでは、

「ほんまにお箸が立つ」

とか言って、一緒に食べさせてくれてたとか(笑)

他には本物の甘い物とか、

「ほんまにどこから聞いてきてたのかよう知ってた」

とか。

もうかなり食料事情が悪くなっていた頃らしく、そうやって出す雑炊でも、お米なんかちょっとしか入ってなくて、お箸が立たないのが多かった頃に、本当にお箸が立つ雑炊はおいしかったでしょうね。

私がまだ小さい頃、アイスクリームケーキというと、クリスマスの時期にしかありませんでした。
その珍しいケーキを、この伯母さんがクリスマスの時には持って来てくれてたなあ。

そうそう、元町に初めて「マクドナルド」ができた時も、

「あそこはケチャップも自分のとこで作っとうねんて」

と、おみやげに持って来てくれてました。

そういう「新しい物」「珍しい物」が好きな人でした。

あ、そういえばこんなことも思い出した(笑)

伯母さんがある時、電話で、

「今度「おさつくっきー」というお菓子が出て、買うたげてるから今度来た時に食べ」

と言ってくれて、すごく楽しみにして行きました。

私は勝手に「お札クッキー」と頭の中で変換していて、

「外国のお札の形とかしたクッキーかな」

と、ドキドキして行ったら、

「サツマイモで作ったスナック」

で、すごくがっかりしたんだった(笑)

小さい頃の母と叔父も、なんだかんだ言いながら、伯母さんに引っ張り回されて、ある時には当たりに喜んで、ある時にははずれにがっかりしてたのかな。
なんとなく、様子が浮かぶように思います。

具のない焼き飯 ~ひよこの聞き語り(27)

前回は母親の超偏食だったことを書きました。
戦時中、いや、戦前戦後も合わせて食べ物のない時代でも、自分の嫌いなものは断固として食べなかった母の話です。

その母よりはましかも知れませんが、母の下の叔父さんもそこそこ食べ物には頑固です。

叔父さんは母より2歳下、元旦生まれの早生まれなので学年でいうと3つ下になりますが、愉快ですがやっぱりちょっとくせもの(笑)
超優等生だった上の伯父さんとは全く違うタイプですが、違った方向でむずかしい、かな。

ある時、うちの母親が叔父さんのお嫁さんに、

「あの子、焼き飯食べへんでしょ」

と言ったら、

「なんで分かるんですか?」

と、びっくりされたそうです。

話はやはり戦時中から戦後だと思うのですが、こんなことがあったそうです。

広島の風早という場所に疎開していた母親一家(祖母、長女、長女の娘、すぐ上の伯母、叔父、母)ですが、神戸で祖父が仕事をして多分仕送りもあったんでしょうが、疎開先でもじっと座っていたわけではありません。
子供達は学校がありますし、大人もそれぞれ仕事や役割がある。

祖母は疎開先のかなあ、農業とか手伝ったり色々やってたようです。
元が働き者の祖母、あちらこちらで重宝されたそうです。

母のすぐ上の伯母さんは役所(村役場?)に働きに行ってました。

長女の伯母、この伯母の嫁ぎ先(と言っても結婚してすぐに夫は「軍属」で外国に行ってしまったのでそのままずっと神戸にいたんですが)がここ、風早でした。
その御縁で母と叔父は学校単位の集団疎開ではなく、家族と一緒に疎開できたんだとか。

その長女の伯母は生まれて間もない娘を連れてたんですが、「代用教員」の仕事をしていました。
当時は男の人がみんな戦地に行ってしまったので、正式に教員としての資格を持たない人が教師をやったりもしてました、それが「代用教員」です。
神戸に帰ってからも伯母さんは子供に勉強を教える仕事、今でいう塾を家でやってましたので、この仕事が合ってたのかも知れません。

そうやって大人は忙しくしていたのと、食べ物が豊富ないなかと言っても、やっぱり今みたいになんでもかんでも売ってるわけではない。
それで、長女の伯母が母と叔父のお昼ご飯かな?を作って置いて行くとき、よく「焼き飯」を作って置いていってたんだそうです。

「その焼き飯が、入れるもんがなんもないから何も入ってない焼き飯でおいしくなかった」

と、母が言ってました。

「何も入ってない焼き飯」ってどんなの?
「具の入ってない焼き飯」らしいけど、例えばネギか何かは入ってて、ソーセージとかハムとか鶏肉とか、そういうのがない焼き飯だったみたい。

その「具のない焼き飯」がしょっちゅう出てくるので、叔父さんは焼き飯がすっかり嫌いになってしまったのだとか。
今と違ってレンジもないですから、具の入ってない冷めた焼き飯を何度も食べてたらげんなりもしますよね。

さすがの偏食の母も、その後は普通に焼き飯を食べるようになってたんですが、叔父さんはどうしてもだめになってしまったようです。
分かります、ありますよね、そういうこと。

この話を聞いたのはもうずっとずっと前なので、ひょっとしたら80を超えた今は食べるようになってるのかな?
今度聞いてみよう。
「そんなんどないでもええがな」と素直に教えてくれるかどうか分かりませんが。
ええ、そういう叔父さんなんです(笑)

何もなくても絶対食べない ~ひよこの聞き語り(26)

今日は勤労感謝の日なんですが、クマ旦那さんはお仕事で出ています。

今日も帰り遅いんだろうなあ。
待ってても仕方ないので、先に食べて、帰ってきたらすぐにお風呂入ったり食べたりして寝られるように準備します。

昔、うちの父親がまだ店をやる前、やはりいつも帰りが遅かったです。
なので母と妹と私の3人で先にご飯を食べてました。

そして実は、私は小学校の中学年ぐらいまで、ものすごく偏食でした。
肉嫌い、魚嫌い、野菜嫌い。
一体何を食べてこんなに大きく育ったの?と考えてしまうぐらい食べられない物だらけ。

なので、晩ご飯を食べられない時は、食べられるもの、ソーセージとか目玉焼きとかラーメンとか、そういうのを食べてました。
幼稚園に入るか入らないかの頃からそうで、当時丸くて細長いストーブの上に小さい鉄のフライパンを置き、そこで自分が食べるソーセージを炒めたりしてたなあ、
思えばそれが私が料理をするようになったようになったきっかけです。

ただ、父親が早く帰って来たら許されないんですよね・・・
「ちゃんと食べなさい」と嫌いな物を自分のお皿とかに入れられて、涙目になりながら食べてました。

後年、

「どうして母は私の偏食を許しくれてたのか」

が、分かりました。

実は、母は場合によっては私より何倍も偏食だったからです(笑)
私は小学校の真ん中ぐらいから何でも食べられるようになり、それこそよほどのゲテモノ以外は何でも食べます。

母は、自分が大人になるまで不思議と気づかなかったんですが、まあ一生偏食でした(笑)

その偏食は強烈で、戦争で物がない時代でも、どうやっても食べない物がいっぱいあったようです。

神戸にいた頃はなかったような物が、広島の竹原市に疎開したらいっぱいあったそうです。
白いお米も野菜も。

のんびりした地域だったので、ある時空襲警報が鳴ってるのに、

「警報が鳴りよるの、鶏でもしめようかの」

と言ってるのを聞いて、すごくびっくりしたと聞いたこともあります。

母のすぐ上の伯母は、

「白いご飯においしいお漬物、あれだけあったら何もいらんかった、おいしかったなあ」

と言ってるのを聞いたことがありますが、あいにくと母はお漬物が嫌いで食べられず、

「お漬物しかない時はご飯にお塩振ってそれだけで食べてた」

そうです(笑)

他にも、夏は子供達が海に潜り、そのへんにいる「牡蠣」を取ってきて、殻を割って塩水でさっと洗っておやつに食べてたのももちろん食べられず、畑になってる新鮮なトマトもだめ、あれもだめこれもだめ・・・
その偏食はずっと治らず、大人になっても牡蠣はカキフライだけ、トマトもだめでした。

果物でも嫌いなものがいっぱいあり、メロンもだめスイカもだめ。
う~ん、困ったもんですね(笑)

夏なんか、スイカを切って食べてたら、ひょこひょこっと私のところにきて、

「その先の甘いとこだけちょっとちょうだい?」

と、子供のように言って取られてたなあ。

なんでいっつも私のところに来るんだ?(笑)

同じようにトマトが嫌いだったという「北杜夫」さんが、

「疎開先で嫌いだったトマトを食べておいしくて好きになった」

と書いてるのを読んだことがあるんですが、うちの母親の偏食はそれほど強烈だったようです。

私だったら、戦時中でお腹が減って減って仕方なかったら、よっぽど変なものでない限りお腹をふくらませるのに食べてただろうなあ。
子供の頃難しかったと聞いたけど、かなり頑固だったんですね(笑)

インフルエンザワクチン

私はインフルエンザのワクチンを、もう20年ぐらいは打ってます。

ある年、本当にひどいひどいインフルエンザに罹りました。
熱は出るし、吐くし、全身辛いし、水も受け付けないぐらいになりました。

かかりつけの内科で、連日点滴を打ってもらってたら、

「これはもう入院した方がいいかも」

と言われたんですが、その時にどんな状況だったかと言いますと、なんか一日中ぐったりしてるかトイレで吐いてるかのような感じだったので、

「病院の誰が使ってるか分からないトイレにかじりつきたくない」

と、拒否して家にいました。

水も受け付けないんですよ、本当に。
物も食べられないし胃も痛いし。

ただ、不思議なことにファンタやスプライト、サイダーのような炭酸系とスイカは受け付けました。
普段、あまり炭酸系とジュースとか飲まないんですが、それ以来、今でも体調崩すと炭酸欲しくなるようになったので不思議です(笑)

冬だったけどスイカを買ってきてもらい、それで命つないだような感じだったなあ。
本当にスイカには頭が上がらない。
そして冬でもスイカを手に入れられる今の時代にも感謝です。

その時だったか、その翌年だったか覚えてないんですが、

「インフルエンザのワクチンがあるよ」

と、そのかかりつけの先生に教えてもらい、

「お願いします」

と、打ってもらいました。

当時はまだ誰もワクチン打ってるような人はいなくて、両親にも「大げさな」と言われたんですが、あの辛さを味わわなくてもいい、もしくは和らげられるならぜひとも打ちたいと思ったんです。

当時は2回接種で1回が3000円だったかな。
2回で6000円。
結構高いですが、インフルエンザでダウンしたら、結局同じぐらいかかるかも知れない。
だったら辛くない方がいいです。

それからも毎年打ってたんですが、そのうちに命に関わる「新型インフルエンザ」が出てきたりして、うちの両親も普通に打つようになりました。

それで今年もそろそろだなと思ったら、あっちもこっちもワクチンが足りない・・・
父親も毎年行きつけの病院で打ってもらってるのに、今年は予約が取れない。

色々聞いてみたら、クマ旦那さんがが巻爪の治療でかかってる内科と外科で、

「予約ではなくあれば来てくれた人に打ってます、今日はあります」

と言われたので月曜日に一人で打ちに行きました。

父親にも一緒に行こうと言ったんですが、次に病院行く日が決まってるので、その日に聞いてから、と頑として行かないと言う・・・

「しょうがない、一人だけでも打っておかないと」

そう思って行ってました。

月曜日にいつ頃まであるか聞いたら、

「今あるのは多分今日中になくなりますが、また電話してもらって入ってたら来てもらえます」

とのこと。

そして今日、電話したら「大丈夫です」と言ってくれたので、月曜日は仕事で行けなかったクマ旦那さんも打ってきました。

後は父親だけです。
年寄りに一番に打ってもらいたかったんですけどねえ。

「もしも土曜日にだめだったら、うちと同じ病院に引っ張って連れて行くからね」

と、宣言してあります。

はあ、なんでこんなに足りないんでしょうね。
無事にインフルエンザの季節を乗り切れますように。

典型的理系だった伯父 ~ひよこの聞き語り(25)

「ひよこの聞き語り」を書き出して、多く書いてるのは母の父、祖父のことじゃないかと思います。
会ったことない、写真しか知らない祖父ですが、たくさん話を聞いてるので、どうしても母方祖父母に話が偏りますね。

会ったことない祖父ですが、写真を見てそっくりだと思う伯父のことを今日はちょっと書きたいと思います。

上から2番目、長男だった伯父ですが、大層出来が良かった人です。
「らしい」じゃなくて言い切れるのは、本人を知ってるから。

ですが、私が知った頃には、かなり柔らかくなっていて、若い頃に絵に描いたような優等生の姿はあまり・・・(笑)

聞くところによりますと、幼い時から勉強が良くできて、今の「神戸高校」当時の「一中」から今の「京都大学」当時の「京都帝大」にずっと一番で進学するような人だったそうです。
多分東大もストレートみたいな感じだったんでしょうが、戦前という時代からか祖父が遠くにはやりたがらなかったらしいのと、その学部は東京より京都の方が難しかったかなんかで京都に進んだとも聞きました。
何にしても、超頭が良かったらしいです。

ただ、バリバリ理系だったからか、若い頃から四角四面、なんでも曲がってるのが嫌い、真っ直ぐピシっとしてないとだめ、だったとか。

一番上の伯母さんの次、間に1人か2人亡くしてるので7年してこの伯父さん、次が3つ開いて母の上の伯母さん、間で1人幼くして女の子が亡くなり、5年開いて母、その下が2年開いて末っ子の叔父さんという兄弟姉妹です。

なので、伯父さんはうちの母親から見ると8つ上、末っ子の叔父さんからすると10も上なんですね。
母が物心つく頃には、当時の中学に行ってたぐらいですか。

伯父さんが中学高校の頃は戦前だったので、学校でも運動会などが軍事教練のようだったらしいのですが、他の生徒がみんな兵隊の恰好で匍匐前進をしてる中、成績トップだった伯父さんは台の上で司令のような役をやっていて、

「ものすごくかっこよかった」

らしいです。

若い頃の写真とか見たことあるけど、なんとなく様子が目に浮かぶようです。

当時は学生もみんな足に「ゲートル」を巻いて登校してたんですが、その巻き方も、

「ここからこうしてこう巻いて終わりはここ」

みたいに、びしっときちっと巻き方が決まってて、決してずれたりしないように巻いてたとか。

物を置く時とかにも、本とかがびしっと真っ直ぐきちんと並んでなくてはならなくて、まだちびだった母や弟の叔父さんが「わざと」曲げておくと叱られたそうな(笑)

「なんでもきちっとなのでやってみたくなる」

って、ちびども悪いですね(笑)

他に、学校にも誇りを持っていたので、わざと校歌を間違えて歌ったりして叱られたりと、なんやかんやとかまってほしかったのか、叔父さんと2人でやってたようです。

戦時中はそういうわけで京都に下宿してたんですが、後にそこの下宿の娘さんと恋愛結婚をしました。
もう伯父さんも伯母さんも亡くなってしまったけど、この伯母さんも京女の面白さいっぱいで、小さい体でパワフルで、私は大好きでした。

この伯母さんが「アメリカさんと祖母」で祖母に「この人ベビさん」と言われた「この人」です。

話は戻りまして、そんな昔のことは、だから聞くしかないんですが、私が実際に見てきた伯父さんは、

「理系ってこんなんなんだなあ」

と、思うことがいっぱいある人でした。

例えば、伯父さんはお酒もタバコも飲む人だったんですが、その飲み方がもう理系。

「タバコは1日13本、まず起きて1本、朝食後に1本・・・寝る前に1本」

と、1日に吸う時間が決まっていて、

「その本数で吸うと1ヶ月で大体400本、2カートン買うとちょうどええんです」

と言ってました。

お酒も量は忘れましたが、そんな風に1日に飲む量、買う量が決まってました。

私が一番記憶に残ってるのが「あんパンとクリームパン」です。

私が大学を卒業して就職し、会社の合同の研修会が2日に渡ってあったんですが、ちょっと遠く、家に戻って翌朝出ても間に合わないことがあったんです。

泊まるところがない人はホテルとかに泊まるしかなかったんでしょうが、うちはたまたま伯父さんの家(大阪)が近かったので泊めてもらうことになりました。

ちょうど伯母さんが出産したばかりの娘(当時金沢だった)のところに行ってたので、伯父さんが朝食を作って出してくれたんですが、それが「あんパンとクリームパン」と紅茶でした。

「それが何か?」と思うメニューですが、その出し方がちょっと違うんです。

あんパンもクリームパンもそれぞれ8等分に切ってある。

「私は毎朝これを食べてますんや、こうして切っておくと1つがちょうど1口で、紅茶を飲みながらちょうど食べ終わる」

と、講釈を垂れられました(笑)

一事が万事こんな風で四角四面だったらしいのですが、私が物心つく頃にはかな~り柔らかくなっていて、幼い私にシャンソンの「モンパリ」を歌ってくれたり、ちょうど泊まりに行ってた時に深夜酔っ払って帰ってきて玄関で寝てたイメージがあるもので、かなり大人になるまでは、そんな人だとは知らなかったです(笑)