「ひよこの聞き語り」カテゴリーアーカイブ

新制高校生になった父 ~ひよこの聞き語り(8)

前回(ひよこの聞き語り(7))、

「母親が入学した学校と卒業した学校が全部違う」

という話を書きました。

母親の場合、戦前戦後の混乱で行っていた学校の名称が変わったことと、疎開で引っ越したことが原因でした。

母親のやや年長の父親も、やはり学校の名称が違っています。
こちらはずっと同じ家で生まれ育ったんですが、同じく時代のせいですね。

父親は母親と同じく「尋常小学校」に入学しました。
ここまでは同じ。

次に、母親は「高等女学校」に進学し、それが「新制高校」に移行したわけですが、父親は「尋常高等小学校」に入学しました。

これは、小学校の上にある学校で2年間だそうです。
受験する人は「中学校」に進むわけですが、父親は受験をせずにそちらに進学したそうです。

理由は、

「高等小学校を出たら兵隊さんになるための学校に入ろうと思っていた」

からです。

「どうせみんな兵隊に行かされる、ならばその学校を出たら20歳ぐらいで少尉になれるから」

と考えた末の進路だったそうです。

そのつもりで「尋常高等小学校」に入ったものの、戦争が終わって決めていた進路がなくなり、また中学を受け直して編入し、そこから「新制高校」に進んだらしいです。

父親の年齢だと、学校に入ったからと言ってすぐに戦地に送られることはなかったと思いますが、それでも、

「入学してたら何発かは殴られてたやろなあ」

とのことです。

殴られるような学校に行かなくて本当によかった(笑)

父親のほんの少し上の方では学徒動員で出征されて戻らなかった方もいらっしゃるようです。
そしてこちらは兵隊さんに行ったわけではないですが、同学年の方で、小学生一人で満州の開拓団に入った方がいらっしゃったそうです。

「満蒙開拓団」

たくさんの日本人が満州や内モンゴル自治区に開拓団として入植されたんですが、その方は家族ではなく、たった一人で志願して行かれたんだとか。
調べたところ、「満蒙開拓青少年義勇軍」というのもあるらしいのですが、そちらは16歳以上ですので、11か12の小学生が入れたようには思えません。
なんにしても、すごい勇気と言うか、なんと言うか・・・

幸いにもその方も無事に戻られ、2、3年前に父親が妹達といなかに帰った時のもご健在だったそうです。
聞いてほっとしました。

しかし、母親の場合は、名前は変わったとしても一応自分が考えていたルートに沿って進学していますが、父親は違います。
いきなり進路がぶっつりと切れ、慌てて進む先を考えなおしたことになります、たった10歳ちょっと過ぎたぐらいの子供が。

「どんな気持ちだった?」

と聞いてみましたが、

「なくなったもんはしょうがない」

みたいな返事でした(笑)

まあ実際そうなんでしょうねえ。

なんにしても、無事に八十の坂を越し、まだまだ元気でいてくれる、それだけでもう充分かな。
せっかく元気でいてくれるんですから、絶対に100は超えてもらいます、ええ(笑)

アメリカさんと祖母 ~ひよこの聞き語り(7)

うちの両親やその家族に関わらず、第二次大戦を経験した方はまだいっぱいいらっしゃいます。
最低でも70歳以上ですけど。

昨日まで敵だと言ってたアメリカ軍がいきなり周囲に出現したり、今までの価値観がひっくり返されたり、そういう経験をしたことがないので、どんな気持ちだったのか、とかは想像するしかありません。
私も両親やその兄弟達からちらほらとは聞いてますが、それでも、ぐっと遠くの出来事、みたいな感じではあります。
そんなエピソードを一つだけ、ちょっと笑いを交えて(笑)

やはり母方の祖母のことなんですが、当時の普通のお母さんがそうだったろうと思えるように、やはり「鬼畜米英」を教えられていたもので、戦争に負けたと知った時は覚悟をしたようです。

「もしも、アメリカやイギリスが日本に上陸したら、お母さんはあんたらを殺して私も死にます!」

と、子供達に言っていたそうです。

結局、そういうことにはならずに済んだんですが、自分の子供にそういうことを言う気持ちはどうだったのか、想像するだけでも苦しいです。
そして、うちの母達は幸いにもそうならずに済んだんですが、実際に家族で自決された方もいらっしゃるんですよね・・・
「そういう時代だったんだ」で済む話ではありません。

ただ、うちの母の家族はその後数年して神戸に帰って来て、また家族みんなで暮らせるようになった、幸せだった、運が良かったと思います。

終戦の日、母達は広島にいたんですが、神戸に帰ってきて元町に住みました。
戦前に住んでいた家は国に接収されてそのまま戻ってこなかったんです。
それですぐに帰れなかったのかも知れませんね。

とにかく、帰った頃には小学生(正確には国民学校生)だった母が女学校を経て高校生になっていました。

元町には進駐軍も多くいたようで、うっかりと靴をはいたままで家に入ってこられた、ようなこともあったようですが、何にしろ「鬼」「悪魔」と思っていたアメリカ兵と接触する機会も少なからずあったようです。

ある日、祖母がおじさんの娘(祖母にとっては2番目の孫で私のいとこ)を抱いて家の外に座っていたら、アメリカ兵が近寄ってきて、

「カワイイベビサン、コノヒト(いとこを指さし)ママサン(祖母に)?」

と、片言の日本語で聞いてきたんだそうです。

そしたら祖母が、

「のーのー、この人(自分を指さし)ベビさんのーのー、この人(おじさんの奥さんでいとこの母親を指さし)ベビさんね」

と、ニコニコとアメリカ兵に答えた、んだとか。

たった数年前まで「来たら死ぬ!」とまで思っていたアメリカ兵にこの対応(笑)

祖父は英語を話せたらしいですが、祖母は時代的にもおそらく小学校か高等小学校しか卒業してなくて、それほど高度な教育は受けていないはずです。
なのにこの順応力(笑)
多分、たった一回の邂逅ではなく、ちょこちょことそういうこともあったんでしょうけどね。

神戸の元町という土地柄、そして祖父の仕事柄周囲に進駐軍の人が多くいた関係もあるんでしょうが、

「柔軟だなあ」

と、感心しました。

私だったら、殺されるとまで思った相手にそうできるかなあ。
できるような気もするし、できないような気もします。
その時にならないと分からない、かな。

ただ、祖母のエピソードの一つとして何回も聞き、そのたびに、

「おばあちゃんおもしろいなあ」

と思っていました。

登校拒否になった母 ~ひよこの聞き語り(6)

今日は母の学校の話をしたいと思います。

私の母は戦前の生まれで、子供の頃に終戦を迎え、戦後の混乱期に青春時代を過ごした世代です。
団塊の世代よりはちょっと上、ですね。

その母が、

「私は学校全部、入ったのと卒業したのが違う学校」

と言ってました。

母はごく普通に小学校(尋常小学校)に入学したんですが、途中でそれが「国民学校」になったので、卒業したのは「国民学校」でした。

「国民学校」を卒業後、疎開先で「高等女学校」に入学しましたが、戦後女学校が男子の学校と併合で「新制高校」になったため、移行する形でそのままその高校に通って高校生になりました。
その後神戸に帰ることになり、卒業は神戸の違う高校でした。
なので入った学校と出た学校が全部違う形になったわけです。

今は小学校から中学校、中学校から大部分が高校、そこから専門学校や大学と進むわけですが、当時はもっと色々選択肢があったようです。
母は女学校でしたが、「尋常小学校」の上に2年の「高等尋常小学校」があり、そっちに進む人もいたそうです。

とにかく、戦争の影響で学校の呼び名やシステムが変わったことと、疎開したことでそういうことになったわけです。
戦争がなかったら、そのままずっと神戸の学校だったかも知れません。

小学校卒業までは、今でもある普通の転校と同じような感じですが、色々あったのは「高等女学校」から高校になる時です。

母の行っていた学校はそこそこ良い学校だったんだそうです。
ですが、併合になる近くの男子の学校が、母が言うには「あまり良くない学校」だったため、「レベルが下がるのはいやだ!」と、学生がみんなでストライキをしたのだとか。

「学校ではなく近所のお寺に集まって、そこでみんなで授業を受けた」

のだそうです。

一部、学校関係者の娘さん達(校長先生の娘さんだったかなあ)だけは気の毒にも学校に登校しなくてはいけなかったそうですが、教師も含めて学校がそのままお寺に移動したような形でそれなりに楽しかったとか(笑)
そうやってがんばりはしたんですが、戦後の日本で全部のシステムが変わったせいなので、一部の人間だけががんばってもどうにもならず、その後結局は一緒になって「新制高校」になったのだとか。

「結局はそうなるのは分かっていたけど、みんなで意思表示だけはしよう」

と、そうなったらしいですが、すごいですよね。

ただ、そうして抵抗はしたものの、いざ共学になると、

「とても楽しかった」

のだそうです(笑)

そうして高校生活を楽しんでいた母ですが、今度は疎開先から神戸に戻ることになりました。

神戸に戻り、一度は公立高校に編入したもののどうにも合わなくて、一週間通っただけで、

「広島に戻りたい!」

と、登校拒否、どうやっても転校先に行かないとがんばったんですが、祖父が、

「家族で暮らせるようになったのに一人だけ戻すわけにはいかない」

と認めてくれなかったのだとか。

それでもどうしても戻りたいと色々と話し合いをし、

「それじゃあとりあえず、姉2人が行った私立の女子高に行き、それでどうしてもだめだったら広島に戻すことも考える」

という話になり、

「それじゃあ行くだけ行ってみる、だめやったら戻るから」

と行ってみたら、まあその学校が楽しくて、

「結局卒業まで通ってしまった」

のだとか(笑)

祖父の作戦勝ちですか?(笑)

それでも広島の同級生達とも手紙をやり取りし、お互いに行き来もしていたらしいのですが、仲が良かった同級生が結核で亡くなった後、段々と連絡をとらなくなっていったそうです。

母が持っている卒業アルバムはおば達と同じ神戸の私立高校のものですが、写真を見るだけでも楽しそうです。
私の高校時代より充実してるような気がするなあ。

一番思うのは、時代的なものかも知れませんが、

「みんなずっと大人」

だということです。

卒業の寄せ書きにしても、私の時代よりもっときちんとしてる気がします。
文章も内容も、みんな本当にしっかりしてる。

ひょっとしたら、いや、ほぼ確実に、いい年になった今の私より、当時の母達の方がしっかりしてます。
今は全体的に若くなった分、みんな子供な気もします。
いい点も悪い点もありますけどね(笑)

ただ、当時、明日死ぬかも分からない時間を過ごした分、青春時代は輝いてたんだろうなあと思います。
もうそんな時代は来てもらいたくないですけどね。
戦争のない時代に生まれただけでも、私達は幸せなんだろうなあ。

祖母と闇市 ~ひよこの聞き語り(5)

今回も母方の祖母の話です。

祖母は大層な働き者だった、という話を以前(祖母のこと(1))書きましたが、戦時中か戦後か分かりませんが、祖母は闇市で商売をしたことがあったそうです。

ずっとなのか、その時だけなのかは分かりません。
確かめようにももう覚えてる人もいませんし・・・
ただ、母から「こんなことがあった」と聞いたことがあるので、そのことを書こうと思います。

当時の母の年齢から、おそらく広島の竹原に疎開していた頃のことだと思いますが、祖母は「塩あん」のおまんじゅうを作って闇市に売りに行ったことがあるそうです。

「塩あん」とは、物のない時代のことで、小豆なのか他の豆類なのかは分かりませんが、それであんこを炊いて、砂糖の代わりに塩で味付けをしたものだそうです。

「え、甘くないあんこなんておいしいの?」

と聞いたら母が、

「物のない時代だったから、そんなおまんじゅうでもよく売れたらしい」

と教えてくれました。

そうして儲けたお金で祖母は母に「豚革の靴」を買ってくれたんだそうです。
もちろん買ったのは闇市ででしょうねえ。

広島の親類(一番上のおばさんの嫁ぎ先)に疎開させてもらってとりあえず食べる物はなんとか食べられる中、そういう物はやはり不足していたんでしょうね。
祖父は神戸に残って仕事をしていたけれど、その時のお給料とか仕送りとかがどうなってるかまでは分かりません。
ただ、「ぜいたく品」を買うにはお金が足りなかったのじゃないか、と思われます。

「買ってもらってすごくうれしかった」

と母は言ってました。

当時は本当に物がなく、紙製の靴とかもあったと聞いたような気が・・・
そんな中、本物の豚革の靴、それはうれしかったことでしょう。

他の兄弟姉妹にも何かを買ったのか、その時は母だけだったのかも分かりませんが、とにかく新しい靴、ものすごくうれしかったようで、何回もその話を聞きました。

子供の頃に聞いた時は「へ~」ぐらいだったんですが、大人になっていくにしたがって「おばあちゃんすごいなあ」と思うようになりました。

闇市なんて怖いですよ、どんな人がいるか分からないし。
そんな中、神戸から来て親類に身を寄せながら、手に入る材料を工夫して食べさせるだけじゃなく、お金儲けをして子供に少しでも不自由をかけないようにしてやりたい、そう思ったんでしょうね。
一応は奥様で、戦争がなくて神戸にいたら、そんな商売しなくて済むような人が、よく思いついたと思います。
そんな祖母を、私はすごく尊敬しています。

お父さんお母さんお父ちゃんお母ちゃん ~ひよこの聞き語り(4)

皆さんはご自分のご両親のことをなんて呼んでらっしゃいますか?

「お父さんお母さん」?
「お父ちゃんお母ちゃん」?
「パパママ」?
それとも「とと姉ちゃん」みたいに「ととかか」?

色々な呼び方があると思いますが、私は、いい年になった今でも基本は「パパママ」だったりします(笑)

なぜかと言いますと、母の一番上のおばさんが、

「今頃はみんなパパママやからそう呼ばせんとこれからはかわいそう」

と主張したらしく、私も妹も、それから母方のいとこ達、おばさんの孫まで全員最初は「パパママ」でした(笑)

その後、成長するにしたがって色々と変わってきたんですが、私は最後まで抜けなかったですねえ。
抜けなかった理由もあるんですが、それはまた後日にでも。

今日はうちの母方の兄弟姉妹がどう呼んでたのか、を書きたいと思います。

私が生まれるずっと前に母方の祖父母は亡くなっているので、もちろん自分でそう呼んでるところを聞いたわけではありませんが、母がその兄弟姉妹と話してるのを聞いていたのを思い出したら、そう呼んでいたなあ、と思う呼び方があります。

まず一番上、長女のおばさんですが、「お父さんお母さん」でした。
母達に話す時に「お父さんが」「お母さんが」と言っていたのを覚えているのでこれは間違いありません。

次に2番目、長男のおじさんですが、「お父さんお母さん」と「親父おふくろ」でした。
おそらく最初は「お父さんお母さん」で、成長するにしたがって「親父おふくろ」になっていったんじゃないかな。
男の人は多いですよね。
でも母達と話す時には「お父さんお母さん」だったので、そっちの方が多かったんだろうと思います。
実際に祖父母を呼ぶ時は「お父さんお母さん」だったようにも思えますね、おじさんの性格から言って。
母達と話す時に「おふくろが」とか言ってるのは、聞いたことがあるようなないような・・・

次に母のすぐ上のおばさんですが、「お父さんお母さん」と「お父ちゃんお母ちゃん」が混じってたような気がします。
なんでかな?
ひょっとしたら、相手によって変えてたのかな?
母と話してる時は「お父ちゃんお母ちゃん」だった気がするので、なんとなくそう思いました。

そして次がうちの母親ですが、「お父ちゃんお母ちゃん」でした。
私達に話をする時には「おじいちゃんが」とか話すこともありましたが、自分のことを話す時なんかには「お母ちゃんにこうしてもろた」みたいに言ってましたね。

そして母の弟、末っ子のおじさんは、おそらく最初は「お父ちゃんお母ちゃん」だったんでしょうが、私が呼び方を聞くようになってからは「親父おふくろ」としか言ってるのを聞いたことがありません。
だから、ひょっとしたら「お父さんお母さん」だった可能性・・・う~ん、あるんだけど、うちの母親が「お父ちゃんお母ちゃん」だったから、おそらくかなり低いですね、可能性(笑)

祖父母自身はお互いのことを「お父さん」「お母さん」と呼び合っていたらしいので、どうしてうちの母親が「お父ちゃんお母ちゃん」なんだろう?と、ちょっと不思議。
なんででしょう?
でももう、聞ける相手もいないので、不思議なままに置いておくしかないんでしょうね。
唯一残ってるおじさんも多分覚えてないだろうし。