「ひよこの聞き語り」カテゴリーアーカイブ

終戦の日らしくない父の終戦の日 ~ひよこの聞き語り(13)

オリンピックの影に隠れたようにあまり話題にあがってないようには思いますが、今日は終戦記念日ですね。

71年前の今日、うちの父親の終戦の日のことを書きたいと思います。

当時、今では中学生にあたる年齢だった父親は、友人と一緒に海に泳ぎに行ってたそうです。
昭和20年、敗戦色が濃くなり、あっちこっちで空襲があったり食べる物がなかったりする中、さすがにいなかはまだのんびりしていたんですねえ。

お昼まで海で泳ぎ、お昼からは映画館で映画を見る予定だったらしいです。
戦時中とは思えない、今とほとんど同じような中学生の夏休み、なんだかちょっと笑ってしまいます。

友人達と映画館に行ったら、なぜか映画館が閉まってる。

どうして閉まってるのかと映画館の人に聞いたら、

「日本が戦争負けたから」

と答えたので、

「嘘つけー日本が負けるはずなかろう」

と、みんなで言って家に戻ったら本当に負けてたんだそうです。

テレビや映画で見るような、悲壮な感じではなく、なんだかマンガのようで笑ってしまいます、ごめんなさい(笑)

でもそういう終戦の日もあったんですね。
本当に地域差が大きい。

ちなみに母親は、この日疎開先の広島の竹原で終戦を知り、祖母が母達に、

「アメリカやイギリスが来たらお母さんはあんたらを殺して一緒に死にます!」

と、言ってたそうです。

71年目の今日、私は家でのんびりして、お昼から買い物に行ってから実家に行き、夕方には送り火を炊いて父親とご飯を食べてから家に帰ります。
また普通の生活に戻る準備の日、そんな日です、今日は。

その日その時刻に ~ひよこの聞き語り(12)

毎朝、テレビをつけてその時刻を頼りに用事をしています。

朝はBSで朝ドラの再放送と今の放送を見て、それから「日本縦断こころ旅」がある時はそのまま、他は番組によってチャンネルを替えなかったり替えたりします。
他の番組が見たくないわけではないんですが、朝は忙しいのであまり決まって見る番組を増やしたくないもので(笑)

今朝も7時45分になったのでチャンネルを地上波に替えたらさっき見たばっかりの「とと姉ちゃんが」もう一度始まってびっくりしました。

「あ、そうか、今日は原爆の日で時間が早いのか」

原爆投下時間に合わせて式典が行われるので早かったんですね。

そのまま2回目の朝ドラを見て、続けて式典を見ながら家事をしてました。

毎年、これを見ると思い出すことがあります。

「昭和20年のこの日この時刻にママは跳び箱のテストで校庭に並んでたんだなあ」

「ひよこの聞き語り(10)~原爆を見た母」」にも書いたんですが、うちの母親は遠くからですが原爆の投下を見ています。

女学校の入試の体育の補習か何かで何人かで跳び箱の練習をしていたんだそうです。
飛ぶのを待つ間、跳び箱の方を向いて並んでたら視線のずっと遠くで何か見たことがない雲がもくもくと湧き上がり、みんなであれはなんだ、とみんなで言い合ったそうです。

その時にはもちろんなんだか分からなかったんですが、後で「広島に新型爆弾が落ちたらしい」との情報が入ったとか。

地上に落ちた最初の原爆の雲を自分の身内が見ている、そう思うと毎年なんだか妙な気分になります。

幸いにも母達がいたのは同じ広島でもずっと離れた竹原市だったので全く影響はなかったそうですが、投下後、そう日にちが経たないうちに、母の一番上の伯母が知人を探すために市内に行ったそうなんです。
伯母は60になる前に病気で亡くなったのですが、長く病気を患っていたのがそれと関係あったのかなかったのか、それは誰にも分かりません。
それでも「ひょっとしたら・・・」とは、母ももう一人の伯母も口にしたことがありました。

自分は幸いにも直接原爆の影響を受けずに生まれてきて生きています。
ただ、自分の親しい人がそういう形でですが、多少なりとも原爆と関わりがあった、ということを忘れずにいたいと思います。
そういう形でも、少しは忘れない理由にできると思うから。

神戸の空襲と母の実家 ~ひよこの聞き語り(11)

自分勝手に両親は親族から聞いた昔のことを書いていってますが、回を重ねるごとに自分でも何を書いたか忘れるようになってきました(笑)

なので最初から全部に副題をつけてみました。
これでどういうことを書いたかタイトルを見て思い出せます♪

今日は、昨日ちらっと書いた神戸の空襲のことを書きたいと思います。

うちの母とその家族も神戸の空襲を経験してます。

幸いにも家族全員無事だったんですが、空襲の中、まだ小学生(正確には国民学校生)だった母は一度家族とはぐれ、もうちょっとでそのまま取り残されるところになり、すぐ上の伯母が探しに戻ってくれて家族と再会することができたそうです。

「ぼーっとしてしもて気がついたら一人やった」
「あのまま残されたら生きてなかったかも」
「おばちゃんに何しとん!と怒鳴られてはっとした」

そう言ってたのを聞きました。

そうしてなんとか家族は無事だったんですが、空襲で荷物の大部分を失うこととなりました。

空襲より前に母達の実家は「接収」されることになってました。
「接収」とは、国や軍に家や持ち物を取られること、お国に寄付させられることです。
嫌でもどうしようもありません。

この際だからと祖母、一番上の伯母とその娘、母のすぐ上の伯母、母、母の弟である叔父は広島の竹原に疎開することになりました。
一番上の伯母さんの夫の実家です。

そして祖父と、大学生で京都に下宿していた伯父が帰ってきた時に過ごすための家を借り、そこに荷物を移したんですが、皮肉なことに引っ越したその夜にその引越し先が焼けてしまいました。
もう一日引っ越しが遅かったら、実家は出なければいけないとしても荷物は無事だったでしょうにねえ。
竹原に送った荷物とおじさんの京都にあった荷物だけは無事だったようですが。

そのまま母達は竹原に行き、そこで終戦を迎えることになります。

「接収」された母が生まれ育った家ですが、戦後も返還されることはありませんでした。
実は今もそこの住所がうちの本籍地になったままです。
両親が結婚する時、父は愛媛が本籍だったので、神戸が本籍の方が便利だろうと母の本籍を選んだんです。
そして私の本籍もそこだったので、うちの苗字になったクマ旦那さんの本籍地も自然にそこになりました。

「これで自分も神戸っ子!」

と、大変喜んでますが、その本籍地、今はテニスコートになってます(笑)

一度だけ母と見に行ったことがあり、今もネットの地図で調べたらテニスコートのままです。

高松のおじさんも同じく本籍地を移していないのでうちと同じ本籍、そしておじさんの長男もそのままなのだそうです。
もしも国に取られていなかったら、あそこがうちのいなかだったかも知れない。
私が子供の頃、大伯母の料亭に一族集まってお正月をしていたように、あそこでみんなが集まっていたかも知れませんね。

原爆を見た母 ~ひよこの聞き語り(10)

伊勢志摩でサミットがあるそうですね。
お伊勢さんは小学校の修学旅行で行って以来なので、テレビで見て「また行きたいなあ」と思ってました。

サミットだけではなく、今回はオバマさんが広島に行くというのも話題になってます。
謝罪云々じゃなく、人類の上に起こった悲劇ということで鎮魂に行ってもらえるのはいいことだと思います。

広島に原爆が落ちた時、ちょうどうちの母やその家族も広島にいました。
ただ、広島と言っても爆心地の広島市ではなく何十キロも離れた竹原市にいたので被害を受けることはありませんでした。
でも母は原爆を見たそうです。

母はちょうど女学校の受験ため、体育(当時は体操かも知れません)の補習を受けていたのだそうです。
母は勉強はどれもできたみたいなんですが、体育は補習が必要だったみたいで、さすがに私の母親です(笑)

その時間、校庭で何人かと跳び箱を跳ぶために並んでいたら、視線の先の方にいわゆるきのこ雲がもくもくと上がり、一緒にいた友人達が、

「ありゃあなんね?」

と、広島弁(竹原弁?)で言い、みんなでなんだろうと見ていたそうです。

後日、

「広島に新型爆弾が落ちた」

と聞いた時にも、まだどんな物なのか何なのか、全く分からなかったとか。

母やその家族は神戸で空襲にあいました。
その後広島に疎開してからも、対岸の松山で空襲があったのも見たそうですが、やはりきのこ雲は全く異質、今まで見たことがないものだったようで、「何?」以外に考えようもなかったようです。

今は一応平和な時代です。
過去がどうのこうのではなく、これから先もずっと平和な時代が続きますように、そのために足を運んでくれるのなら、それは歓迎すべきことだろうと思います。

男勝りのマドンナだった伯母 ~ひよこの聞き語り(9)

今、いとこがおじさんとおばさんの住んでた家、いとこの実家を片付けてます。
来週、いよいよ買い主さんに引き渡すためです。

おばさんはあの震災の年に亡くなり、その後おじさんが1人で住んでいたんですが、もう数年前に亡くなったのでそれからずっと空き家になってます。
それでも持ち家なのでなんだかずっとそのままあるような気がしていて、気持ちの上で私も甘えていたような気がします。
ずっと思い出が残っていてくれるような。

この家に住んでたおばさんは、少し年は離れてますが母のすぐ上の姉にあたります。
美人でしっかりしていて、子供の頃はガキ大将だったそうです(笑)

生きてれば今年で米寿です。
長生きしていてほしかったなあ。

そういう年なので、戦争が激しくなってきた頃にはちょうど女学校(と言ってもほぼ勤労動員だったらしいですが)に通っていて、きびしくなってきた戦況を聞いては、

「なんて男達は頼りない!私が男だったらすぐにでも行って敵を倒してやるのに!」

などと思っていたと本人から聞きました。

色々なことが伏せられていた時代とは言え勇ましいものです(笑)

その後、母達と一緒に広島の竹原というところに疎開し、そこで終戦を迎えることとなり、女学校も卒業したので役場で働いていたそうですが、その頃はちょうどお年ごろ、神戸から来たべっぴんさんはかなりもてもて、マドンナだったそうです。

そしてある時、こんな事件があったそうです。

おばさんのことを好きになった男の人がいて、ある時、多分役場の用事で人が集まるとか嘘を言っておばさんを呼び出したのかな、なんだかそんなことで行ってみたらその男の人が一人だけ来ていて、おばさんに花束を差し出して、ひざまずき、

「好きです、結婚してください!」

とやったそうな(笑)

なんだかドラマみたいですよね。
でもそんな気一切ないおばさんは、とっとと逃げて帰ってきて、あえなくその方は失恋したのだとか。

でも多分、その人はおばさんと結婚してもうまくいかなかったんじゃないかな、と思います。
と言うのはですね、上にも書きましたが「自分が男だったら」と思うような気丈夫な人です。
おそらく、役場の人達の前では猫かぶってたと思う(笑)
都会的で気が強くて、とってもいなかの農家のお嫁さんになれる人ではなかったと思います(笑)
あぜ道をバレエのグランジュテのようにポンポン飛びながら帰ってくる人、多分無理(笑)

その後、神戸に帰ってからは大伯母の料亭を手伝うこととなり、大伯母が年をとるにしたがって、このおばさんが文字通り中心で切り盛りしていました。
おばさんだから、と取引してくれるお客様も多くいたそうです。

その後おばさんは健康を損ねてから遅い結婚をし、料亭は大伯母の養女夫婦が継いだんですがつぶれてしまいました。
時代的なこともあるのでおばさんが継いでいたら今もあったとは言いませんが、もうちょっとなんとかなってたんじゃないかなあとは思います。

そう思うぐらいしっかりした、ある意味母達兄弟姉妹の要のような人でした。
私も思い出がいっぱいあるんですが、亡くなる前には毎日病院に通っていたのでどうしても弱ってきてからのことを思い出すことが多く、もっと前の楽しかった元気だった頃のおばさんを思い出さないとだめだなあと思います。
笑える話もいっぱいあるもの(笑)