「まんぷく」の鈴さんに似てる気がする「おばちゃん」~ひよこの聞き語り(45)

10月から朝ドラが新しくなって「まんぷく」が始まりました。

1回目から欠かさず見てるんですが、今日、ちょっとあることを思い出して愉快になってしまいました(笑)

「なんか、この鈴さんってちょっとおばちゃんに似てるかも」

私の母の一番上の姉であるおばさんです。
私が中学の時に亡くなったんですが、ふと思い出しました。

「鈴さん」とは、主人公の「福子」のお母さんなんですが、

「私は武士の娘です」

が口癖で「松坂慶子さん」が演じてらっしゃいます。

「私は武士の娘です」というと、大抵が貧しかったとしてもキリッとしてしっかりして、いざとなると懐から懐剣でも出してきそうな娘さんをイメージしますが、この「鈴さん」は全然違う(笑)

始まった最初の月曜日と火曜日、

「このお母さん、武士の娘って言いながら全然そういう感じに見えない」

と、ちょっと変な感じがしてたんです。

ですが、それがなんというか「狙い」だったんですね、3日目の水曜日あたりで分かって笑ってしまった(笑)

「武士の娘」と言いながらさびしかりで文句が多くてすぐすねる。
それでいて負けず嫌いで見栄っ張りでプライドだけはめっきり高い。

なんかボロカスですが、それでいて愛すべき人って感じなんですよね。
そういう部分、おばちゃんになんか似てる(笑)

母の一番上の姉ですが、母とは15歳離れてました。
そしておばちゃんの次、長男の伯父とも7歳離れてます。
間で一人亡くなっているからだそうです。

兄弟姉妹の中で一人だけ年が離れていて、お姫様みたいに甘やかされて育てられていたそうで、自分を一番にしてくれないとすねる、みたいなタイプだったなあ(笑)

さびしがりだからか、他の兄弟姉妹、そして自分の娘が結婚する時も全部に文句言ってケンカして「結婚式に出席しない」をやってます。
一番最後、もう年齢もいってから結婚した母の上の伯母の時だけは、さすがに言わなかったらしいですが。

元々が結構な大家族で生活してたので、祖父母が亡くなった後、戦死して夫もおらず、一人ずつ家族が減っていくのがさびしかったんでしょうね。
そのさびしさが不満や愚痴になって、でも正直にさびしいと言えなくてみんなを怒らせてケンカして、とそういう風になったようです。

うちの両親の披露宴は「花隈」の大伯母の料亭でやったんですが、それにも絶対参加しないと言いながら、普段着にエプロンで、大広間の外の廊下に座って見てたとか。
母が「あそこまで来るんやったら出ればいいのに」と思いだしてはぷりぷりしてたなあ。

当時「元町の家」に住んでた母が、もう少し西の「荒田町」にあった父が間借りしてた部屋に荷物を運ぶ時に、

「これもうちのやから、これも、これも持っていかんといて、触らんといて」

と、片っ端からいちゃもんをつけるのでひどくケンカをしたらしいです。

そしてそんなことを言っておきながら、

「トラックに荷物を積んで紅白の幕を張って吉日に荷物を出すように」

と言うので母が、

「嫁入りダンスは家具屋さんから送ってもらうし、そんなに持っていく荷物がないからそんなんいらんから」

と言うと、

「嫁入りするのに世間に恥ずかしい、花嫁の荷物も出さへんなんて」
「トラック出すほどの荷物ないのにどうやって幕張るんよ」
「両端に荷物乗せて間開けて上から幕張ったら分からへん」
「あっちに着いて幕外したら空っぽって分かるやん、そんな恥ずかしいことできへんから!」

と、言い合いになったとか(笑)

他にも、

「もう出て行ったら帰ってこんでええ」
「帰ってこんわ」
「来ても水しか出さへんから」
「帰ってこえへんのにどうやってお水なんか出すんよ!」

とか、なんか漫才?って感じの言い合いがいっぱいあったらしいです(笑)

当時は母もものすごく腹を立てての大げんかだったらしいんですが、想像すると私は笑ってしまいます(笑)

そして結婚式の時までそういう感じで完全に母は怒ってしまい、新婚旅行に行ってもおばちゃんにはおみやげを買わないと言ってたらしいのです。

そうしたら父が、

「お姉さん一人にそんなことできん、だったら自分が買う」

と、新婚旅行先で腕時計を買ったんだとか。

そして、旅行から神戸に戻った時、新居ではなく一番におばちゃんの家に顔を出し、父がその腕時計を渡したら、ポロポロ涙を流してたらしいです。
じわっときますよね。

それまで、自分の兄弟姉妹も他の人のことも文句ばっかり言ってたらしいんですが、他の方が言うには、

「◯◯さん(うちの母のことです)のご主人のことだけはほめることはあっても悪口を聞いたことがない」

らしいです。

それまで誰とでもケンカしてたのはさびしかったから、一人になるのが怖かったから。
それを父が、どこよりも一番に自分の家に帰ってきてくれて、しかもそんな高いお土産までくれた。
物が欲しかったとか、言うことを聞かせたかったとかではなく、さびしい気持ちを分かってもらって泣けたんじゃないかなと私は思います。

そうそう、その腕時計、長く大事にしてたらしいんですが、近所の子供たちに勉強を教える仕事をしてたので(塾みたいなもんです)しょっちゅう人が出入りして、気づいたらなくなっていたとか。
えらくがっかりしてしょげてたらしいですが、私はその実物も見たことないし、おばちゃんから聞いたこともないなあ。

結局、私が生まれた時も母はおばちゃんの家に里帰りし、それからも毎週のように実家のように帰るようになり、私が物心つく頃にはそんなトラブルメーカー的なこともめっきり減り、とてもかわいがってもらいました。

そのおばちゃんがね、

「これからはみんなパパママでないと」

と、みんなにパパママ呼びを推奨し、なぜだか自分までうちの父親のことを「パパ」と呼ぶようになったせいか、他の人までみんなうちの父親を「パパ」と呼ぶようになってしまってました(笑)

そのおかげで私はいい年になった今でも「パパ」呼びが残ってます。
他の人達はみんなそこそこの年齢で「お父さん」に変わったのに、うちだけ残ったのはほぼ間違いなくおばちゃんのせいだ(笑)

うちが今の場所に引っ越して父親が商売をすることが決まり、家が遠くなるのをさびしがりながらも、客間をおばさんの部屋にと両親が言ってたので、それを楽しみに楽しみにしてたのに、待ちきれずに引っ越す半年ほど前に亡くなってしまいました。

私は、高校受験と引っ越し、父親の転職開業と色々なことが重なって、あまりおばちゃんにやさしいこともしてあげられなくなってたと思います。
もうちょっとだけいてくれたなら、もっと、もうちょっと何かしてあげられてたのに、と胸が痛くなるおばちゃんとの聞いた話と、自分が見てきた話でした。

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