前回は母親の超偏食だったことを書きました。
戦時中、いや、戦前戦後も合わせて食べ物のない時代でも、自分の嫌いなものは断固として食べなかった母の話です。
その母よりはましかも知れませんが、母の下の叔父さんもそこそこ食べ物には頑固です。
叔父さんは母より2歳下、元旦生まれの早生まれなので学年でいうと3つ下になりますが、愉快ですがやっぱりちょっとくせもの(笑)
超優等生だった上の伯父さんとは全く違うタイプですが、違った方向でむずかしい、かな。
ある時、うちの母親が叔父さんのお嫁さんに、
「あの子、焼き飯食べへんでしょ」
と言ったら、
「なんで分かるんですか?」
と、びっくりされたそうです。
話はやはり戦時中から戦後だと思うのですが、こんなことがあったそうです。
広島の風早という場所に疎開していた母親一家(祖母、長女、長女の娘、すぐ上の伯母、叔父、母)ですが、神戸で祖父が仕事をして多分仕送りもあったんでしょうが、疎開先でもじっと座っていたわけではありません。
子供達は学校がありますし、大人もそれぞれ仕事や役割がある。
祖母は疎開先のかなあ、農業とか手伝ったり色々やってたようです。
元が働き者の祖母、あちらこちらで重宝されたそうです。
母のすぐ上の伯母さんは役所(村役場?)に働きに行ってました。
長女の伯母、この伯母の嫁ぎ先(と言っても結婚してすぐに夫は「軍属」で外国に行ってしまったのでそのままずっと神戸にいたんですが)がここ、風早でした。
その御縁で母と叔父は学校単位の集団疎開ではなく、家族と一緒に疎開できたんだとか。
その長女の伯母は生まれて間もない娘を連れてたんですが、「代用教員」の仕事をしていました。
当時は男の人がみんな戦地に行ってしまったので、正式に教員としての資格を持たない人が教師をやったりもしてました、それが「代用教員」です。
神戸に帰ってからも伯母さんは子供に勉強を教える仕事、今でいう塾を家でやってましたので、この仕事が合ってたのかも知れません。
そうやって大人は忙しくしていたのと、食べ物が豊富ないなかと言っても、やっぱり今みたいになんでもかんでも売ってるわけではない。
それで、長女の伯母が母と叔父のお昼ご飯かな?を作って置いて行くとき、よく「焼き飯」を作って置いていってたんだそうです。
「その焼き飯が、入れるもんがなんもないから何も入ってない焼き飯でおいしくなかった」
と、母が言ってました。
「何も入ってない焼き飯」ってどんなの?
「具の入ってない焼き飯」らしいけど、例えばネギか何かは入ってて、ソーセージとかハムとか鶏肉とか、そういうのがない焼き飯だったみたい。
その「具のない焼き飯」がしょっちゅう出てくるので、叔父さんは焼き飯がすっかり嫌いになってしまったのだとか。
今と違ってレンジもないですから、具の入ってない冷めた焼き飯を何度も食べてたらげんなりもしますよね。
さすがの偏食の母も、その後は普通に焼き飯を食べるようになってたんですが、叔父さんはどうしてもだめになってしまったようです。
分かります、ありますよね、そういうこと。
この話を聞いたのはもうずっとずっと前なので、ひょっとしたら80を超えた今は食べるようになってるのかな?
今度聞いてみよう。
「そんなんどないでもええがな」と素直に教えてくれるかどうか分かりませんが。
ええ、そういう叔父さんなんです(笑)