あったかボード

今日も朝から寒かったです。
お昼からはちょっとお天気も悪くなり、かなり早い時間から外が暗くなった気がします。

私が今こうしてパソコンを使ってる席なんですが、窓際です。
床暖房があるので足元から温かいんですが、寒い日、風がある日は窓の方からの冷気が結構きます。

実はうちの窓のカーテン、ちょっと寸足らずです。
なので余計そこから冷たい空気が入ってくるんですね。

それで写真のようなものを買ってみました。

「窓際あったかボード」

発泡素材、かな?
それを置くだけなんですが、冷気を遮断してくれたら温かいかも。

期待してます!

心配性のクマ旦那さん

今夜は友人と遊びに行きます。

そしたらもう昨日から、クマ旦那さんがあたふた(笑)

「大丈夫?体調悪くない?」
「一人で大丈夫?(友人と一緒だ)」
「クマ旦那さんがいなくても大丈夫?」

と、過保護っぷりを露呈しております(笑)

「駅ではあまり線路側に出ないこと!」
「信号が青だからってどんな車が出てくるか分からないから注意すること!」

えっと、私は幼稚園児ですか?(笑)

気持ちは分かります。
私も心配性だから、帰ってくるまで心配します。
帰ってきたらほっとします。
特に、あまり遠出しない私が友人と大阪行くとなったら心配性クマさんの心配性スキルはマックス発動するの分かってますし(笑)

いつもいつも心配する方が多い私ですが、たまにはこうして心配してもらうのも悪くないですね。
十分楽しみ、元気で帰ってこようと思います。

だから、一人でご飯食べておいてね?(笑)

広島浅野家 ~ひよこの聞きがたり(36)

今日は赤穂浪士の討ち入りの日です。

我が家では昔からずっと、この日は「討ち入りそば」を食べることになってます。
特に意味はなく、「メニューを考えなくていいから」ですが(笑)
丑の日にうなぎ、冬至にカボチャを食べるのと同じですね。

ただ、直接の関係は全くないんですが、少しだけ、ちょこっと思うことがあります。

赤穂浪士の討ち入りの原因になったのは、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったことです。
日本人の大部分が知ってるお話ですよね。

その浅野内匠頭の赤穂藩、その本家が広島の浅野家なんです。
私の母方のご先祖は、その浅野家の家臣でした。
何回か、そのことを母から聞いたことがありました。

でもまあ、家臣ですから、やっぱり全然関係はありません(笑)

ただ、浅野内匠頭の弟、浅野大学という方が、赤穂の浅野家がお取り潰しになった後で「広島浅野宗家にお預け」になってるんですよね。

「うちのご先祖様はひょっとしたら大学さんを遠くからでも見たのかなあ」

その程度のことを考えたりしたことはあります。

歴史って本当に面白いです。
自分が生まれるずっとずっと前の、全く想像もつかない昔のことでも、そういうところでちょこっと引っかかったりして、また興味を持てたりしますから。
ほとんど何も知らないご先祖様ですが、その人がひょっとしたら、遠くからでも見たのかな?話をしたことあるのかな?と考えるだけで、なんだかドキドキしてしまいます(笑)

もう一つの「南の哀愁」 ~ひよこの聞き語り(35)

うちの母方の女連中、一度は宝塚歌劇の洗礼を受けます(笑)

私も小学校から高校まで、毎月のように全部の公演を観に行ってました。
母と妹と3人だったり、いとこと妹と3人だったり妹と2人だったり。
連れは色々ですが、本当に好きだったなあ。

今は、時々思い出したように行ってます。
一度見ると「また行きたいなあ」と思うんですが、今は、毎公演行くほど、ではありませんね。
好きなんですが、きりがない(笑)

母もやはり子供の頃から宝塚をずっと観て育ってきてるんですが、戦後、まだ広島にいる頃に、多分祖父からでしょうね、再開した宝塚のプログラムを送ってもらい、演劇部か何かでお芝居をやったりもしてたようです。

その演目が「南の哀愁」です。
宝塚の有名な作品の一つで、今までに何回も何回も再演されています。
調べてみたら初演は昭和22年なので、時代的に、多分、その初演の時のプログラムを送ってもらったと思います。

今は違いますが、以前は宝塚のプログラムには脚本が全部掲載されてました。
その脚本を元にして、文化祭か何かでミュージカルをやったそうです。

お芝居のストーリーやセリフは脚本があれば分かるんですが、問題は歌の部分です。
楽譜も、私が観に行ってた頃は売ってたんですが、今はないみたいですね。
というか、脚本や歌集はまた別の本として出しているそうです。
買ったことはありませんが。

当時すでに歌集を売っていたのかどうか分かりませんが、母の手元に届いたのは脚本だけだったので、曲は音楽の先生に作ってもらうことになりました。

「だから南の哀愁に2つの音楽がある」

と、母が自分達の「南の哀愁」の歌も歌ってくれてたので、私にも2つの「南の哀愁」があります。

オリジナルの宝塚の方は、

「み~なみの~しま~、み~わくのしま~、さ~よ~うる~わし~、わ~が~た~ひち~」

みたいな音楽ですが、母達のは、

「みなみのしぃま~~~、みわくのしぃま~」

みたいな感じ。

とても全部は覚えてませんが、今でも「南の哀愁」と聞くと2つの音楽が浮かびます。

どんなだったのかなあ。
もしもタイムマシンがあったなら、母達の「南の哀愁」をこっそり観に行きたいものだ、と思ってます(笑)

下駄でタップダンス ~ひよこの聞き語り(34)

寒いですね、一気に1月末の気温だとか言われてますが、本当に寒くて堪えます。

外に出て寒くても、帰ってきて暖房を入れて「温かい家にいられてよかったなあ」と幸せです。
お風呂にも入ってほっこりしてさらに幸せ。
風邪っぴきですが、少しずつ治ってきて、これまた幸せです。

そういう小さい幸せを感じながら、ふと母方祖母のことを思い出しました。

祖母、小さい幸せを大事にする人だった、と私は思いました。

特に教育があるわけではない人ですし、何か信仰してたわけでもないですが、「分け与えるということを知ってた人」だと、私は色んな人の話を聞いて思いました。

今はもういなくなったと思いますが、昔は「おもらいさん」という人がよくいたようです。
まだ戦後間もない頃の話ですけどね。

そういう人が来ると、祖母は、自分の家もそうなんでもかんでもあるわけじゃないけど、とにかく食べ物だとか何か物、場合によってはお金もあったのかなあ、そういうのをあげていたようです。
自分は特に贅沢する人じゃないし、何かを欲しがる人でもなかったみたいですが、困った人をほっとけない人でもあったのかも。

一度そういう人にあげたら、やっぱりネットワークと言うんですかね、「あそこに行くと何かもらえる」と、ちょこちょことそういう人が尋ねてきていたとか。

そしてある年、祖父が死の床についてる時にもやっぱりそういう人が来たんですね。

祖母が玄関に出て行って、確か古い服か何かをあげたと聞いたように記憶してます。

そうしたら、その「おもらいさん」がすごく感謝して、

「返せるものがないから、せめてこれを」

と、玄関で、下駄を履いてタップダンスを始めたんだとか。

あれ、ひょっとしたら、その下駄をあげたんだったかな?
何しろ、身に付ける物だったように記憶してるんですが、そのへんが曖昧で・・・

とにかく、状態としては、部屋の中では祖父が亡くなる少し前です。

「もういいから」

と、祖母が返そうとするんですが、申し訳ないからと、しばらく踊ってから帰っていったそうです。

困っただろうなあ。
どういう気持だったかなあ。
おじいちゃんんの耳にもタップの音、聞こえただろうか?
おばあちゃんのこと、しょうがないな、と笑ったかなあ。

色んなことを考えてしまいます。
悲しい時のことですが、一応、ちょっと笑ってもいいんじゃないかな、と思います。
祖母の人柄が出てる話、と私は思ってます。