「空襲」タグアーカイブ

ジュラルミン街 ~ひよこの聞き語り(18)

毎朝「べっぴんさん」を見ています。

そして実家に行ったら父親とドラマの話をしたりするわけなんですが、今朝は、

「あさやさん、元町で焼け残った言うけど、あんまり元町っぽくないよね、セットやから仕方ないけど」

というところから、また戦後の元町の話になりました。

うちの父親は戦後すぐに神戸に出てきたわけではありません。
父親の母親、つまり私のおばあちゃんが病気になり、もうあまり長くないということで、高校卒業後そのまま家に残り、おばあちゃんが亡くなってから就職で関西に出てきました。

なので、父親が神戸に来た頃にはかなりもう復興していたそうなんですが、それでも元町はまだまだ空襲で焼けた名残が残ってはいたようです。
阪神淡路の名残が今もまだ残ってるように、あっちこっちで気づくと何かある、というぐらいだったのかも。

「元町も空襲で焼けて、3丁目はうちの会社と同和火災のビルだけが残ってた」

父親と母親が勤めていた会社のビルは外が焦げたりはしたものの残っていて、外と中を直して営業をしていたようです。

元町は、1丁目から2丁目、3丁目あたりが空襲に会い、また反対側の7丁目も神戸駅の近くなので焼けたんじゃないか、と父親が言いました。

「べっぴんさん」で「あさや」さんとして出てくる靴屋さん、本当にあったお店がモデルなので、

「元町でも焼けなかった6丁目あたりやったのかなあ」
「そうかもな」

そんな話をしてたらまた父親が、

「3丁目その2つのビル以外は全部焼けてしまってトタンか何かで作ったからか『ジュラルミン街』と呼ばれてた」

と言うのを聞いてびっくり、

「え、そんな話初めて聞いたよ!」

そうなんです、元町がそんな呼ばれ方してたなんで、今日、父親に聞いて初めて知りました。

調べてみたら、戦時中に航空機工場から松蔭女学校へ疎開させていたジュラルミンの払い下げを受け、戦後まもなく元町の共同店舗をキラキラ光るジュラルミンで作ったから、だそうです。
父親が金属だからトタンか何かと思っていたのは、本当にジュラルミンだったんですね!

昭和も30年代に入り、段々とジュラルミンの外装を持つ店舗は建て替えられていったそうですが、今も残っているところがあるそうです。
全然知らなかった・・・

私が知ってる元町は、もう建て替えられた後の元町です。
と言うか、元町がそこまで焼けたなんて知らなかったきがします。

母親が20年代半ばに元町に戻り、その数年後に父親が会社に勤めるようになりました。
その頃はまさに復興の真っ最中だったんでしょうね。

なので、もう生活ができてる元町の印象しかなかったんです。

他に印象が残ってるのは、母親が言ってた、

「元町の通りにチャーチルやルーズベルトの顔を描いてあって、それを踏んで通るようになってた」

ことです。

主に聞くのは戦後の元町での母親達の生活のこと、そしてその「鬼畜米英」の踏み絵のことだったので、今回聞いたジュラルミン街は本当に新鮮でした。

それと、「あさや」さんのモデルですが、ドラマでは元町になってましたが、事実は三宮センター街のようです。
あのあたりも焼け残ったのかな?
また父親に聞いてみようと思います。

神戸の空襲と戦後の女性の生き方 ~ひよこの聞き語り(14)

朝ドラの「べっぴんさん」を毎朝楽しみに見ています。

前回の「とと姉ちゃん」の時には西島さんの「とと」を見て祖父を思い浮かべたんですが、今回は人物じゃなく、やはり神戸の話で神戸の空襲から母や祖母のことを思い出しました。

「祖母のことを思い出した」と言っても、私が生まれるよりずっとずっと前、まだ母が若い頃に亡くなった祖母にはもちろん会ったことがありません。
なので全部まさに「聞き語り」になります。

今日の「べっぴんさん」では神戸に空襲があり、ヒロインが生まれ育った家が焼けてしまいました。

うちの母親は生まれ育った家は焼けなかったんですが、「接収(国や軍に取られること)」された家、母が育った家(生まれた時はここだったかどうかちょっと分からないので)から荷物を移した先の家が焼けて、結果的に荷物がほとんど焼けてしまいました。
疎開先(一番上の伯母の夫の実家)に送ったわずかばかりの荷物が残ったのみです。

焼け跡で呆然とするヒロインを見て、うちの母やその家族もこんな感じだったのかなあ、と考えました。

それから、来週の予告で、ヒロインの初恋の人で、今は実の姉の夫になっている人に、

「これからは女性も自分の手で稼いでいかないといけない」

と、言われてるシーンで祖母のことを思い出しました。

祖母は、一応「奥様」と言われる立場だったらしいのですが、そもそもが苦労人で生活力があった人だったので、戦後、自分が作った「塩あん」のおまんじゅうなんかを闇市で売り、稼いだこともあったようです。

来週から、それまでは家で守ってもらうだけだったお嬢様のヒロインが生きるために働く姿を見たら、多分祖母のことを思い浮かべるんだろうな、と思いました。

うちの祖母は自分で会社を起こしたりはしてないけど、生きるために、子供達のために自分ができるだけのことをした人でした。
もちろんこれも聞き語りですが。

映画やドラマは、自分が経験はしていないけど間接的に見たり聞いたりしたことを補完してくれる効果もあると思います。
来週から、ヒロインが必死にがんばる姿を見て、自分の中の想像の祖母や母達のことに重ねていくことになるのかも。

戦争のこと、戦後のこと、ドラマや記録映像や、色んなことで見聞きしますが、舞台が神戸ということで、より一層身近に感じている私です。

神戸の空襲と母の実家 ~ひよこの聞き語り(11)

自分勝手に両親は親族から聞いた昔のことを書いていってますが、回を重ねるごとに自分でも何を書いたか忘れるようになってきました(笑)

なので最初から全部に副題をつけてみました。
これでどういうことを書いたかタイトルを見て思い出せます♪

今日は、昨日ちらっと書いた神戸の空襲のことを書きたいと思います。

うちの母とその家族も神戸の空襲を経験してます。

幸いにも家族全員無事だったんですが、空襲の中、まだ小学生(正確には国民学校生)だった母は一度家族とはぐれ、もうちょっとでそのまま取り残されるところになり、すぐ上の伯母が探しに戻ってくれて家族と再会することができたそうです。

「ぼーっとしてしもて気がついたら一人やった」
「あのまま残されたら生きてなかったかも」
「おばちゃんに何しとん!と怒鳴られてはっとした」

そう言ってたのを聞きました。

そうしてなんとか家族は無事だったんですが、空襲で荷物の大部分を失うこととなりました。

空襲より前に母達の実家は「接収」されることになってました。
「接収」とは、国や軍に家や持ち物を取られること、お国に寄付させられることです。
嫌でもどうしようもありません。

この際だからと祖母、一番上の伯母とその娘、母のすぐ上の伯母、母、母の弟である叔父は広島の竹原に疎開することになりました。
一番上の伯母さんの夫の実家です。

そして祖父と、大学生で京都に下宿していた伯父が帰ってきた時に過ごすための家を借り、そこに荷物を移したんですが、皮肉なことに引っ越したその夜にその引越し先が焼けてしまいました。
もう一日引っ越しが遅かったら、実家は出なければいけないとしても荷物は無事だったでしょうにねえ。
竹原に送った荷物とおじさんの京都にあった荷物だけは無事だったようですが。

そのまま母達は竹原に行き、そこで終戦を迎えることになります。

「接収」された母が生まれ育った家ですが、戦後も返還されることはありませんでした。
実は今もそこの住所がうちの本籍地になったままです。
両親が結婚する時、父は愛媛が本籍だったので、神戸が本籍の方が便利だろうと母の本籍を選んだんです。
そして私の本籍もそこだったので、うちの苗字になったクマ旦那さんの本籍地も自然にそこになりました。

「これで自分も神戸っ子!」

と、大変喜んでますが、その本籍地、今はテニスコートになってます(笑)

一度だけ母と見に行ったことがあり、今もネットの地図で調べたらテニスコートのままです。

高松のおじさんも同じく本籍地を移していないのでうちと同じ本籍、そしておじさんの長男もそのままなのだそうです。
もしも国に取られていなかったら、あそこがうちのいなかだったかも知れない。
私が子供の頃、大伯母の料亭に一族集まってお正月をしていたように、あそこでみんなが集まっていたかも知れませんね。

原爆を見た母 ~ひよこの聞き語り(10)

伊勢志摩でサミットがあるそうですね。
お伊勢さんは小学校の修学旅行で行って以来なので、テレビで見て「また行きたいなあ」と思ってました。

サミットだけではなく、今回はオバマさんが広島に行くというのも話題になってます。
謝罪云々じゃなく、人類の上に起こった悲劇ということで鎮魂に行ってもらえるのはいいことだと思います。

広島に原爆が落ちた時、ちょうどうちの母やその家族も広島にいました。
ただ、広島と言っても爆心地の広島市ではなく何十キロも離れた竹原市にいたので被害を受けることはありませんでした。
でも母は原爆を見たそうです。

母はちょうど女学校の受験ため、体育(当時は体操かも知れません)の補習を受けていたのだそうです。
母は勉強はどれもできたみたいなんですが、体育は補習が必要だったみたいで、さすがに私の母親です(笑)

その時間、校庭で何人かと跳び箱を跳ぶために並んでいたら、視線の先の方にいわゆるきのこ雲がもくもくと上がり、一緒にいた友人達が、

「ありゃあなんね?」

と、広島弁(竹原弁?)で言い、みんなでなんだろうと見ていたそうです。

後日、

「広島に新型爆弾が落ちた」

と聞いた時にも、まだどんな物なのか何なのか、全く分からなかったとか。

母やその家族は神戸で空襲にあいました。
その後広島に疎開してからも、対岸の松山で空襲があったのも見たそうですが、やはりきのこ雲は全く異質、今まで見たことがないものだったようで、「何?」以外に考えようもなかったようです。

今は一応平和な時代です。
過去がどうのこうのではなく、これから先もずっと平和な時代が続きますように、そのために足を運んでくれるのなら、それは歓迎すべきことだろうと思います。

祖母と闇市 ~ひよこの聞き語り(5)

今回も母方の祖母の話です。

祖母は大層な働き者だった、という話を以前(祖母のこと(1))書きましたが、戦時中か戦後か分かりませんが、祖母は闇市で商売をしたことがあったそうです。

ずっとなのか、その時だけなのかは分かりません。
確かめようにももう覚えてる人もいませんし・・・
ただ、母から「こんなことがあった」と聞いたことがあるので、そのことを書こうと思います。

当時の母の年齢から、おそらく広島の竹原に疎開していた頃のことだと思いますが、祖母は「塩あん」のおまんじゅうを作って闇市に売りに行ったことがあるそうです。

「塩あん」とは、物のない時代のことで、小豆なのか他の豆類なのかは分かりませんが、それであんこを炊いて、砂糖の代わりに塩で味付けをしたものだそうです。

「え、甘くないあんこなんておいしいの?」

と聞いたら母が、

「物のない時代だったから、そんなおまんじゅうでもよく売れたらしい」

と教えてくれました。

そうして儲けたお金で祖母は母に「豚革の靴」を買ってくれたんだそうです。
もちろん買ったのは闇市ででしょうねえ。

広島の親類(一番上のおばさんの嫁ぎ先)に疎開させてもらってとりあえず食べる物はなんとか食べられる中、そういう物はやはり不足していたんでしょうね。
祖父は神戸に残って仕事をしていたけれど、その時のお給料とか仕送りとかがどうなってるかまでは分かりません。
ただ、「ぜいたく品」を買うにはお金が足りなかったのじゃないか、と思われます。

「買ってもらってすごくうれしかった」

と母は言ってました。

当時は本当に物がなく、紙製の靴とかもあったと聞いたような気が・・・
そんな中、本物の豚革の靴、それはうれしかったことでしょう。

他の兄弟姉妹にも何かを買ったのか、その時は母だけだったのかも分かりませんが、とにかく新しい靴、ものすごくうれしかったようで、何回もその話を聞きました。

子供の頃に聞いた時は「へ~」ぐらいだったんですが、大人になっていくにしたがって「おばあちゃんすごいなあ」と思うようになりました。

闇市なんて怖いですよ、どんな人がいるか分からないし。
そんな中、神戸から来て親類に身を寄せながら、手に入る材料を工夫して食べさせるだけじゃなく、お金儲けをして子供に少しでも不自由をかけないようにしてやりたい、そう思ったんでしょうね。
一応は奥様で、戦争がなくて神戸にいたら、そんな商売しなくて済むような人が、よく思いついたと思います。
そんな祖母を、私はすごく尊敬しています。