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ロバのパン屋と「コロちゃん」 ~ひよこの聞き語り(16)

昨日、戦後の元町のことをちょっとだけ書きました。

戦後、二十年代半ばぐらいに母達は広島の竹原から神戸に戻ってきて元町に居を構えました。
その後、母は高校を卒業後、元町にある会社に就職したんですが、家から歩いてすぐなので、お昼ご飯は帰って来て食べる、ようなこともあったようです。

会社でお昼ご飯を食べた時の話もしていたので、その日によって違ったのかも知れません。
そのお昼休みの話を今日は書きたいと思います。

タイトルに「コロちゃん」と書いてますが、ちょっと記憶があやふやで本当に「コロちゃん」だったか、それともひょっとした名前だったかも知れませんが、「コロちゃん」だったと思うのでこの名前でいきます(笑)

母(と父親も母の後から入社した会社ですが)の勤めていた会社で、みんなで飼ってるような犬がいたんだそうです。
今ほどきびしい時代ではなかったので、つないでおくとかそういうのじゃなく、なんとなく会社に住み着いたのかも知れません。
その犬が、おそらく「コロちゃん」でした。

この子がとても賢い子で、自分でおやつを買いに行ってたんだそうです。

当時、元町に「ロバのパン屋」が来ていて、

「ロバのおじさんチンカラリン、チンカラリンロンやってくる」

と、歌を流しながら元町にもパンを売りに来てたんだそうです。

「ロバのパン屋」とは、ちょっと聞いたところでは今も車で移動販売のパンを売っているらしいのですが、当時は本当にロバが荷車?をひいて売りにやってきてたパン屋さんです。

その歌が聞こえたら、母も含めた会社の人が「コロちゃん」に確か「5円」をくわえさせてやるんです。
そうしたらそのお金をくわえて「ロバのパン屋」さんまで行って、蒸しパンをくわえて帰ってきて、おやつを食べていたんだとか。

すっごく見たいですよね!
今は、リードをつけないで犬を離すなんてダメですが、それは戦後の時代のこと、普通にそのあたりを飼い犬もうろうろしてたりもしたんでしょう。
毎日のように自分でおやつを買いに行っていたようです。

犬が来ても売ってくれるパン屋さんもいいし、まだまだ混沌としてただろうけど、のんびりしたところもある時代だったんでしょうね。

おそらく、昭和三十年になるかならないかぐらいの時代のこと、これから日本がどんどん経済成長していく時代の、ちょっとほっこりするお話でした。

神戸の空襲と戦後の女性の生き方 ~ひよこの聞き語り(14)

朝ドラの「べっぴんさん」を毎朝楽しみに見ています。

前回の「とと姉ちゃん」の時には西島さんの「とと」を見て祖父を思い浮かべたんですが、今回は人物じゃなく、やはり神戸の話で神戸の空襲から母や祖母のことを思い出しました。

「祖母のことを思い出した」と言っても、私が生まれるよりずっとずっと前、まだ母が若い頃に亡くなった祖母にはもちろん会ったことがありません。
なので全部まさに「聞き語り」になります。

今日の「べっぴんさん」では神戸に空襲があり、ヒロインが生まれ育った家が焼けてしまいました。

うちの母親は生まれ育った家は焼けなかったんですが、「接収(国や軍に取られること)」された家、母が育った家(生まれた時はここだったかどうかちょっと分からないので)から荷物を移した先の家が焼けて、結果的に荷物がほとんど焼けてしまいました。
疎開先(一番上の伯母の夫の実家)に送ったわずかばかりの荷物が残ったのみです。

焼け跡で呆然とするヒロインを見て、うちの母やその家族もこんな感じだったのかなあ、と考えました。

それから、来週の予告で、ヒロインの初恋の人で、今は実の姉の夫になっている人に、

「これからは女性も自分の手で稼いでいかないといけない」

と、言われてるシーンで祖母のことを思い出しました。

祖母は、一応「奥様」と言われる立場だったらしいのですが、そもそもが苦労人で生活力があった人だったので、戦後、自分が作った「塩あん」のおまんじゅうなんかを闇市で売り、稼いだこともあったようです。

来週から、それまでは家で守ってもらうだけだったお嬢様のヒロインが生きるために働く姿を見たら、多分祖母のことを思い浮かべるんだろうな、と思いました。

うちの祖母は自分で会社を起こしたりはしてないけど、生きるために、子供達のために自分ができるだけのことをした人でした。
もちろんこれも聞き語りですが。

映画やドラマは、自分が経験はしていないけど間接的に見たり聞いたりしたことを補完してくれる効果もあると思います。
来週から、ヒロインが必死にがんばる姿を見て、自分の中の想像の祖母や母達のことに重ねていくことになるのかも。

戦争のこと、戦後のこと、ドラマや記録映像や、色んなことで見聞きしますが、舞台が神戸ということで、より一層身近に感じている私です。

神戸の空襲と母の実家 ~ひよこの聞き語り(11)

自分勝手に両親は親族から聞いた昔のことを書いていってますが、回を重ねるごとに自分でも何を書いたか忘れるようになってきました(笑)

なので最初から全部に副題をつけてみました。
これでどういうことを書いたかタイトルを見て思い出せます♪

今日は、昨日ちらっと書いた神戸の空襲のことを書きたいと思います。

うちの母とその家族も神戸の空襲を経験してます。

幸いにも家族全員無事だったんですが、空襲の中、まだ小学生(正確には国民学校生)だった母は一度家族とはぐれ、もうちょっとでそのまま取り残されるところになり、すぐ上の伯母が探しに戻ってくれて家族と再会することができたそうです。

「ぼーっとしてしもて気がついたら一人やった」
「あのまま残されたら生きてなかったかも」
「おばちゃんに何しとん!と怒鳴られてはっとした」

そう言ってたのを聞きました。

そうしてなんとか家族は無事だったんですが、空襲で荷物の大部分を失うこととなりました。

空襲より前に母達の実家は「接収」されることになってました。
「接収」とは、国や軍に家や持ち物を取られること、お国に寄付させられることです。
嫌でもどうしようもありません。

この際だからと祖母、一番上の伯母とその娘、母のすぐ上の伯母、母、母の弟である叔父は広島の竹原に疎開することになりました。
一番上の伯母さんの夫の実家です。

そして祖父と、大学生で京都に下宿していた伯父が帰ってきた時に過ごすための家を借り、そこに荷物を移したんですが、皮肉なことに引っ越したその夜にその引越し先が焼けてしまいました。
もう一日引っ越しが遅かったら、実家は出なければいけないとしても荷物は無事だったでしょうにねえ。
竹原に送った荷物とおじさんの京都にあった荷物だけは無事だったようですが。

そのまま母達は竹原に行き、そこで終戦を迎えることになります。

「接収」された母が生まれ育った家ですが、戦後も返還されることはありませんでした。
実は今もそこの住所がうちの本籍地になったままです。
両親が結婚する時、父は愛媛が本籍だったので、神戸が本籍の方が便利だろうと母の本籍を選んだんです。
そして私の本籍もそこだったので、うちの苗字になったクマ旦那さんの本籍地も自然にそこになりました。

「これで自分も神戸っ子!」

と、大変喜んでますが、その本籍地、今はテニスコートになってます(笑)

一度だけ母と見に行ったことがあり、今もネットの地図で調べたらテニスコートのままです。

高松のおじさんも同じく本籍地を移していないのでうちと同じ本籍、そしておじさんの長男もそのままなのだそうです。
もしも国に取られていなかったら、あそこがうちのいなかだったかも知れない。
私が子供の頃、大伯母の料亭に一族集まってお正月をしていたように、あそこでみんなが集まっていたかも知れませんね。

アメリカさんと祖母 ~ひよこの聞き語り(7)

うちの両親やその家族に関わらず、第二次大戦を経験した方はまだいっぱいいらっしゃいます。
最低でも70歳以上ですけど。

昨日まで敵だと言ってたアメリカ軍がいきなり周囲に出現したり、今までの価値観がひっくり返されたり、そういう経験をしたことがないので、どんな気持ちだったのか、とかは想像するしかありません。
私も両親やその兄弟達からちらほらとは聞いてますが、それでも、ぐっと遠くの出来事、みたいな感じではあります。
そんなエピソードを一つだけ、ちょっと笑いを交えて(笑)

やはり母方の祖母のことなんですが、当時の普通のお母さんがそうだったろうと思えるように、やはり「鬼畜米英」を教えられていたもので、戦争に負けたと知った時は覚悟をしたようです。

「もしも、アメリカやイギリスが日本に上陸したら、お母さんはあんたらを殺して私も死にます!」

と、子供達に言っていたそうです。

結局、そういうことにはならずに済んだんですが、自分の子供にそういうことを言う気持ちはどうだったのか、想像するだけでも苦しいです。
そして、うちの母達は幸いにもそうならずに済んだんですが、実際に家族で自決された方もいらっしゃるんですよね・・・
「そういう時代だったんだ」で済む話ではありません。

ただ、うちの母の家族はその後数年して神戸に帰って来て、また家族みんなで暮らせるようになった、幸せだった、運が良かったと思います。

終戦の日、母達は広島にいたんですが、神戸に帰ってきて元町に住みました。
戦前に住んでいた家は国に接収されてそのまま戻ってこなかったんです。
それですぐに帰れなかったのかも知れませんね。

とにかく、帰った頃には小学生(正確には国民学校生)だった母が女学校を経て高校生になっていました。

元町には進駐軍も多くいたようで、うっかりと靴をはいたままで家に入ってこられた、ようなこともあったようですが、何にしろ「鬼」「悪魔」と思っていたアメリカ兵と接触する機会も少なからずあったようです。

ある日、祖母がおじさんの娘(祖母にとっては2番目の孫で私のいとこ)を抱いて家の外に座っていたら、アメリカ兵が近寄ってきて、

「カワイイベビサン、コノヒト(いとこを指さし)ママサン(祖母に)?」

と、片言の日本語で聞いてきたんだそうです。

そしたら祖母が、

「のーのー、この人(自分を指さし)ベビさんのーのー、この人(おじさんの奥さんでいとこの母親を指さし)ベビさんね」

と、ニコニコとアメリカ兵に答えた、んだとか。

たった数年前まで「来たら死ぬ!」とまで思っていたアメリカ兵にこの対応(笑)

祖父は英語を話せたらしいですが、祖母は時代的にもおそらく小学校か高等小学校しか卒業してなくて、それほど高度な教育は受けていないはずです。
なのにこの順応力(笑)
多分、たった一回の邂逅ではなく、ちょこちょことそういうこともあったんでしょうけどね。

神戸の元町という土地柄、そして祖父の仕事柄周囲に進駐軍の人が多くいた関係もあるんでしょうが、

「柔軟だなあ」

と、感心しました。

私だったら、殺されるとまで思った相手にそうできるかなあ。
できるような気もするし、できないような気もします。
その時にならないと分からない、かな。

ただ、祖母のエピソードの一つとして何回も聞き、そのたびに、

「おばあちゃんおもしろいなあ」

と思っていました。

登校拒否になった母 ~ひよこの聞き語り(6)

今日は母の学校の話をしたいと思います。

私の母は戦前の生まれで、子供の頃に終戦を迎え、戦後の混乱期に青春時代を過ごした世代です。
団塊の世代よりはちょっと上、ですね。

その母が、

「私は学校全部、入ったのと卒業したのが違う学校」

と言ってました。

母はごく普通に小学校(尋常小学校)に入学したんですが、途中でそれが「国民学校」になったので、卒業したのは「国民学校」でした。

「国民学校」を卒業後、疎開先で「高等女学校」に入学しましたが、戦後女学校が男子の学校と併合で「新制高校」になったため、移行する形でそのままその高校に通って高校生になりました。
その後神戸に帰ることになり、卒業は神戸の違う高校でした。
なので入った学校と出た学校が全部違う形になったわけです。

今は小学校から中学校、中学校から大部分が高校、そこから専門学校や大学と進むわけですが、当時はもっと色々選択肢があったようです。
母は女学校でしたが、「尋常小学校」の上に2年の「高等尋常小学校」があり、そっちに進む人もいたそうです。

とにかく、戦争の影響で学校の呼び名やシステムが変わったことと、疎開したことでそういうことになったわけです。
戦争がなかったら、そのままずっと神戸の学校だったかも知れません。

小学校卒業までは、今でもある普通の転校と同じような感じですが、色々あったのは「高等女学校」から高校になる時です。

母の行っていた学校はそこそこ良い学校だったんだそうです。
ですが、併合になる近くの男子の学校が、母が言うには「あまり良くない学校」だったため、「レベルが下がるのはいやだ!」と、学生がみんなでストライキをしたのだとか。

「学校ではなく近所のお寺に集まって、そこでみんなで授業を受けた」

のだそうです。

一部、学校関係者の娘さん達(校長先生の娘さんだったかなあ)だけは気の毒にも学校に登校しなくてはいけなかったそうですが、教師も含めて学校がそのままお寺に移動したような形でそれなりに楽しかったとか(笑)
そうやってがんばりはしたんですが、戦後の日本で全部のシステムが変わったせいなので、一部の人間だけががんばってもどうにもならず、その後結局は一緒になって「新制高校」になったのだとか。

「結局はそうなるのは分かっていたけど、みんなで意思表示だけはしよう」

と、そうなったらしいですが、すごいですよね。

ただ、そうして抵抗はしたものの、いざ共学になると、

「とても楽しかった」

のだそうです(笑)

そうして高校生活を楽しんでいた母ですが、今度は疎開先から神戸に戻ることになりました。

神戸に戻り、一度は公立高校に編入したもののどうにも合わなくて、一週間通っただけで、

「広島に戻りたい!」

と、登校拒否、どうやっても転校先に行かないとがんばったんですが、祖父が、

「家族で暮らせるようになったのに一人だけ戻すわけにはいかない」

と認めてくれなかったのだとか。

それでもどうしても戻りたいと色々と話し合いをし、

「それじゃあとりあえず、姉2人が行った私立の女子高に行き、それでどうしてもだめだったら広島に戻すことも考える」

という話になり、

「それじゃあ行くだけ行ってみる、だめやったら戻るから」

と行ってみたら、まあその学校が楽しくて、

「結局卒業まで通ってしまった」

のだとか(笑)

祖父の作戦勝ちですか?(笑)

それでも広島の同級生達とも手紙をやり取りし、お互いに行き来もしていたらしいのですが、仲が良かった同級生が結核で亡くなった後、段々と連絡をとらなくなっていったそうです。

母が持っている卒業アルバムはおば達と同じ神戸の私立高校のものですが、写真を見るだけでも楽しそうです。
私の高校時代より充実してるような気がするなあ。

一番思うのは、時代的なものかも知れませんが、

「みんなずっと大人」

だということです。

卒業の寄せ書きにしても、私の時代よりもっときちんとしてる気がします。
文章も内容も、みんな本当にしっかりしてる。

ひょっとしたら、いや、ほぼ確実に、いい年になった今の私より、当時の母達の方がしっかりしてます。
今は全体的に若くなった分、みんな子供な気もします。
いい点も悪い点もありますけどね(笑)

ただ、当時、明日死ぬかも分からない時間を過ごした分、青春時代は輝いてたんだろうなあと思います。
もうそんな時代は来てもらいたくないですけどね。
戦争のない時代に生まれただけでも、私達は幸せなんだろうなあ。