前回(ひよこの聞き語り(7))、
「母親が入学した学校と卒業した学校が全部違う」
という話を書きました。
母親の場合、戦前戦後の混乱で行っていた学校の名称が変わったことと、疎開で引っ越したことが原因でした。
母親のやや年長の父親も、やはり学校の名称が違っています。
こちらはずっと同じ家で生まれ育ったんですが、同じく時代のせいですね。
父親は母親と同じく「尋常小学校」に入学しました。
ここまでは同じ。
次に、母親は「高等女学校」に進学し、それが「新制高校」に移行したわけですが、父親は「尋常高等小学校」に入学しました。
これは、小学校の上にある学校で2年間だそうです。
受験する人は「中学校」に進むわけですが、父親は受験をせずにそちらに進学したそうです。
理由は、
「高等小学校を出たら兵隊さんになるための学校に入ろうと思っていた」
からです。
「どうせみんな兵隊に行かされる、ならばその学校を出たら20歳ぐらいで少尉になれるから」
と考えた末の進路だったそうです。
そのつもりで「尋常高等小学校」に入ったものの、戦争が終わって決めていた進路がなくなり、また中学を受け直して編入し、そこから「新制高校」に進んだらしいです。
父親の年齢だと、学校に入ったからと言ってすぐに戦地に送られることはなかったと思いますが、それでも、
「入学してたら何発かは殴られてたやろなあ」
とのことです。
殴られるような学校に行かなくて本当によかった(笑)
父親のほんの少し上の方では学徒動員で出征されて戻らなかった方もいらっしゃるようです。
そしてこちらは兵隊さんに行ったわけではないですが、同学年の方で、小学生一人で満州の開拓団に入った方がいらっしゃったそうです。
「満蒙開拓団」
たくさんの日本人が満州や内モンゴル自治区に開拓団として入植されたんですが、その方は家族ではなく、たった一人で志願して行かれたんだとか。
調べたところ、「満蒙開拓青少年義勇軍」というのもあるらしいのですが、そちらは16歳以上ですので、11か12の小学生が入れたようには思えません。
なんにしても、すごい勇気と言うか、なんと言うか・・・
幸いにもその方も無事に戻られ、2、3年前に父親が妹達といなかに帰った時のもご健在だったそうです。
聞いてほっとしました。
しかし、母親の場合は、名前は変わったとしても一応自分が考えていたルートに沿って進学していますが、父親は違います。
いきなり進路がぶっつりと切れ、慌てて進む先を考えなおしたことになります、たった10歳ちょっと過ぎたぐらいの子供が。
「どんな気持ちだった?」
と聞いてみましたが、
「なくなったもんはしょうがない」
みたいな返事でした(笑)
まあ実際そうなんでしょうねえ。
なんにしても、無事に八十の坂を越し、まだまだ元気でいてくれる、それだけでもう充分かな。
せっかく元気でいてくれるんですから、絶対に100は超えてもらいます、ええ(笑)