「ひよこの聞き語り」カテゴリーアーカイブ

クビになった横綱第一号 ~ひよこの聞き語り(33)

今日も今日とてお相撲さんの暴力事件がテレビを賑わせています。

そのことで、父親ととあるお相撲さんの話になりました。

先日、クマ旦那さんが一緒だったので土曜日か日曜日のことだと思うんですが、

「不祥事で引退した横綱」

みたいなリストをテレビで作って出してました。

「その一番上が前田山で、ちょっと笑ってしまった」

と、父親に言ったのが始まりです。

実は、「前田山」という横綱だった人、父親のいなかの「郷土の英雄」です。
十数年前になりますが、いなかに帰った時も、地元のお菓子屋さんで「前田山の手形」を模した「はりて饅頭」というおまんじゅうをおみやげに買ったりもしました。

そうそう、その時にNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の写真も並んでたと父親に言われて思い出しました(笑)
そういやその回も「前田山のことやる」って見た記憶があります。

そんな感じで、ずっと前から話だけはいくつか聞いて知ってました。
今回は知らないことも父親から聞いたのと、自分でもちょっとネットで調べて「そんな人だったのか」と思うことがありましたので、そのことを。

以前から父親が言ってたのは、

「子供の頃から身体が大きい人だった」
「戦後国技館が焼けたりした時にいなかで練習をしていた」
「巡業?をさぼって野球を見に行って横綱を引退した」

そのぐらいかな。

それ以外に今回は、

「右の二の腕に大きな傷があったが、その傷が元で腕を切断するところを救ってもらったお医者さんの苗字をもらって前田山という名前にした」

という大きな話も聞きました。

ネットで調べたら色々たくさんあるんですが、あくまで私が聞いたことと、それにまつわることだけを書きたいと思います。
何しろ「聞き語り」ですから(笑)

さて、最初の「子供の頃から大きかった」の話なんですが、子供のエピソードなので、ちょっとあまりいい言葉じゃありません(笑)
なんですが、本当のことらしいので書きますね。

小学校3年の頃、もうすでに身体が大人ぐらい大きかったらしく、まだ若い女の先生に、

「先生、おしっこさせたろか!」

と、大人が小さい子供に用を立たせるような形で後ろから抱き上げたんだそうです。

そのぐらい身体が大きく力が強かったんですね。
調べてみたところ、巡業に来て身体が大きい子供を見つけた先代親方の目に留まってスカウトされたというのも納得のエピソードです。

その前田山の数年上に父親の一番上のおじさんがいたんですが、いくら身体が大きくてももっと大きい上級生にはかなわなかったらしく、おじさんは何度かいじめた?ことがあったとかも聞きました。
何しろいなかの小さい学校ですからね、全部顔見知りみたいな感じだったんじゃないでしょうか。

二つ目の「練習に来た」話ですが、これは父親が直接見てたことです。

小学校かどこかのグラウンドで、前田山は竹刀か何かを持って座ってて、練習でころがってきた弟弟子?に「しっかりせんか!」と竹刀で活を入れてたらしいです。
「郷土の英雄」ですから、子供だけじゃなく色んな人が見に行ってたんだろうなあ。

そして肝心の「野球を見に行ってクビになった」話ですが、これはもう、そのまま(笑)

「確か大リーグか何かを見に来てそれを写真に取られて新聞に載ったので引退しなくてはならなくなった」

と、ずっと聞いてました。

今回調べてみたら、本当に大リーグでした。
巨人と「サンフランシスコ・シールズ」というチームが試合をして、それを見に行ってクビになったので「シールズ事件」と呼ばれているそうです。

「何しろごんたくれやったらしいからそれぐらいするやろ」
「でも誰かをケガさせたり傷つけたわけちゃうから、まだましや」

と、父親は言ってますが、クビはクビですからねえ(笑)

それから今回初めて聞いた「腕を治してくれたお医者さんの名前をもらった」という話、これもありました。

「ケガからばい菌が入って腕を切り落とすしかないと言うたとこを、前田さんというお医者さんに治してもらい、その名前をもらった」

父親が言ってた通り、稽古中に「筋肉炎」という症状になったところに細菌感染し「骨髄炎」にまでなり、切断しないといけないといわれるほどの重症になったそうです。
それを慶応義塾大学病院の「前田和三郎」さんというお医者さんに治してもらい、感謝して「前田山」に改名した。

「じゃあ前の名前は?」

と、調べてみて、やっぱりちょっと笑いました。

最初が「喜木山」で後に「佐田岬」、これ、どちらも父の故郷の地名からです。
それを考えると知った名前で横綱になってほしかったですが、まあ仕方ない。
だって、腕を切断したらそれから先お相撲は取れなくて、そうしたら横綱にもなれず「故郷の英雄」にもなれませんでしたから。

そうだ、「故郷の英雄」で思い出した。

「ふるさと創生事業の1億円で小学校?に前田山の銅像建てた」

らしいです。

調べてみたら「前田山生誕100年記念に銅像掃除」とかは見つけたんですが「ふるさと創生事業で建てた」との記事は見つけられませんでした。

しかしネットは便利ですね。
今回初めて調べてみて、父親も「そうやったんか」ということがいっぱい並んでました。
父親は四股名しか知らなかったんですが、本名も分かったし。

前田山の本名は「萩森金松」というらしいです。
うちのいなかにある名前です。

父親も名前を聞いて「萩森と言うと、あそことあそこにあったなあ・・ほなあそこの家かなあ」というぐらい、小さいいなかの英雄ですね。

横綱としては残念な終わり方でしたが、その後高砂親方を継ぎ、大スターの高見山を育て上げたんですから、あっぱれな方です。

横綱という地位は今の形になったのは明治以降らしいです。
なので多分、「クビになった横綱第一号」になりますね(笑)

不名誉一号ですが、総合的に見てこう言っておきます。

「さすが父の故郷の英雄だ!」

と(笑)

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テレビがやってきた ~ひよこの聞き語り(32)

天皇陛下のご退位のために「皇室会議」が開かれているそうです。
日記を書いてるこの時間、まさに真っ最中です。

なんでしょうねえ、なんか、歴史の1ページに立ち会っているような、そんな気分です。

ニュースをぼーっと見ていたら、天皇陛下にまつわるエピソードを色々と紹介していて、その中で、

「天皇陛下と美智子様の結婚式を見たくてテレビを買ったお宅も多かった」

と言ってました。

それを聞きながら、

「そう言えば、母のところもそうだったらしいなあ」

と、漠然と思い出しました。

当時はまだ「元町の家」の時代で、住んでいたのはおそらく一番上の伯母、伯母の娘、母、末っ子の叔父、それから母の上の伯母は半分は大伯母の料亭半分はこの家だったかと思います。
長男の伯父とその家族は、多分転勤で東京かな?
ひょっとしたら母たちの従兄弟もいたかも知れないけど、多分もういなかった頃、な気がする。

おそらく、こういうのが大好きな一番上の伯母さんの発案でテレビを買ったんだと思います。
うん、それらしい(笑)

当日はご近所でまだテレビを買っていないお宅のお知り合いとかも見に来て、えらくわいわいと見ていたようです。
当時はまだビデオなんかないし、後にニュースとかで見るとしても、やっぱりできたら生で見たいですもんね。

みんな楽しく見てたんですが、当時、多分まだ大学生だった下の叔父さんは、ちょっと当時遅い反抗期?(笑)か、元来のへそ曲がり精神か、

「たくさんの人が来てうるさくていらっとした」

らしく、怒って出て行ったか何か、だったようです。

うん、これも「らしい」(笑)

末っ子の叔父さん、私はこの人が大好きです。
今も存命なのはもうこの叔父さんだけなんですが、私もクマ旦那さんもかわいがってもらってます。
なんというか、「変人同士」何か通じ合うところがあるというか、なんというか、で(笑)

多分ですが、叔父さんからすると、テレビみたいな新しい物に興味はあるけど、それをみんなが買うブームみたいな時に買って、しかもみんなが見たいご成婚パレードとかでお祭り騒ぎになるのは、

「なんとなく癪」

だったんでしょうね。

今は年を経て丸くなってきたのでどうか分からないけど、以前だったら絶対に「テレビ見たかった」とか認めてないな、叔父さん(笑)

何にしろ、うちの母の家にテレビがやってきたのもやはりその時、これは間違いありません。

その当時、母がまだ結婚してなかったもので、もちろん私はまだまだ生まれる前のことですが、そういう私は今の天皇陛下のご即位のお祝いの年、ちょうど東京の友達のところに遊びに行ってました。

どうして東京に行ってたのかな?
当時はよく東京に行ってたんですが、大部分がTMネットワークの大きいライブとかが目的だったので、理由はなんだったかよく覚えてなくても即位の礼のパレードとかが目当てではなかった、とだけ覚えてます。
調べてみたけど、ちょうどその時期にTMのイベントっぽいものがあった記録はないようです。

東京に行ったらちょうどパレードがあるというので、友人と一緒に見に行きました。
駅とかでは大きい荷物を持ってる人が荷物チェックされてて、ロッカーとかも使えなくなってるのもありました。

私は荷物どうしたのかなあ?
ちょっと大きい荷物持って夜までうろうろしてた気もするけど、それは今も外に出るのに大きい荷物持ってることも多いから、泊まる荷物だけはちょっと遠い駅にでも預けたのかも?よく覚えていません。

そうそう、パレードの列に加わるのに、女性の警察官に上から下までボディチェックされたのも初めての経験で、何もかもわくわくしたなあ(笑)

その後のパレードを見て、なんだろう、なんか不思議な気持ちがしました。

私は特に皇室礼賛の人間じゃありません。
友人も同じ。

ですが、パレードを見送った後、友人が、

「なんだろう、なんか感動したかも」

と言うのを聞いて、同じ気持ちだと思ったのを覚えています。

この友人、あまり感動とかそういうの口にするタイプではないもので、びっくりして余計に覚えてたのかも。
私は感動屋なんですけどね。

それから友人は仕事に行くのでそこで別れ、夜に友人宅にお世話になることにして、私はそのまま銀座へ。
夜は夜で「提灯行列」があったんですよ。

銀座から皇居だったと思いますが、その行列に参加して、提灯ももらって皇居まで。
確か、10キロほど、とか言ってたように記憶してます。
たくさんの人に混じって、提灯を振りながら歩きました。

そして、暗くなってから皇居前で、両陛下が映る大きいビジョンを見てから友人宅に帰りました。

そのパレードで、いわゆる右翼の方達が法被かなあ、なんかそういうの着ていっぱいいたんですが、そのへんのおばちゃん達(私はまだ当時おばちゃんではなかった!)と提灯の火のやり取りとかしてるのを見て、ちょっと面白かったです。
怖い人達だと思ってたのに、普通のおっちゃん達だったもので(笑)

その時の提灯は、今もまだ実家にあります。
物持ちいいでしょ?
捨てられない人なので。

それからもう30年近くになるんですねえ。
昭和は遠くなりにけり、そして私も年をとるはずです・・・

元町の「あかつき湯」 ~ひよこの聞き語り(31)

前回、幼い頃に記憶にあった「丸い湯船のお風呂屋さん」について書きました。

その時に、

「赤ちゃんの時に湯船に落とされた」

ことも書きました。

その「落とされた湯船」なんですが、私はずっとずっとその「丸い湯船」だと思っていました。

それが昨夜、お風呂に入って湯船でゆっくり考えてて、

「待てよ、ちょっと違うかも」

と、思い始めました。

昨日、父親とお風呂屋さんの話をしていて判明した事実があります。

それは、

「私が赤ちゃんの頃は、まだ伯母さんは元町の家に住んでいて花隈には引っ越してなかった」

という事実です。

びっくりしました。
物心ついた頃にはもう花隈の家だったので、てっきり私を連れて母が里帰りしていたのはそこだと思っていたら、元町の家だったからです。

父親が、

「赤ちゃんの時に行ってたんは一番近いあかつき湯やった」

と言うので、

「なんで元町のお風呂屋さんが一番近いん?T湯(丸い湯船のある銭湯)の方が目の前やん?」

と食い違いがあり、色々話してて判明しました。

戦時中、「上筒井」にあった以前の家を国か軍に「接収され」、次に引っ越すはずの家も神戸の空襲で焼けてしまいそのまま母たちは広島の「風早」に疎開、戦後帰ったのがどういうことでそこに住むことになったのかは分かりませんが、祖父が準備していた「元町の家」でした。

なので、古い話、私が生まれるずっとずっと前の戦争からつながった時代の話に出てくる家だと思っていた元町の家に、私も住んでたことがあるんですよ!
本当にびっくりしました。

「花隈の家」には、どうも私が生まれた後、妹が生まれるまでの間に引っ越したようです。
母が妹を生む時に私が預けられてた伯母さんの家は、間違いなく「花隈の家」でしたから。
写真もあります。

とにかく、私を連れて母が元町の家にいた時に、「あかつき湯」というお風呂屋さんに行ってたそうです。

「お風呂に行くのに垢がついて帰るのか、垢つき湯か」

みたいに誰かが冗談で言ったと聞いて、名前を覚えています(笑)

まだ赤ちゃんの私を入れるのに、そのお風呂屋さんのおばさんが、

「赤ちゃん、一番湯に入れてあげ」

と、まだ開店するより早くかな、とにかくそんな時間に入れてくれてたとか。

ありがたいですね、人情だなあ。

おそらく、「元町の家」に泊まった時とかは、そこに行ってたんでしょうね。
少し大きくなるまでそこに通ってた話があります。
あまり楽しい話ではないんですが。

もう私がそこそこ物心ついてたらしいので、産後里帰りみたいにしていた時ではなく、もう少し大きくなった頃、そこのお風呂屋さんに少し身体の不自由な子供さん、かな、がやっぱり通ってらっしゃったとか。
行く時間帯が一緒になることがしばしばあり、その時に、その方を見て私が泣いてしまうらしいのです。

大人だったらちゃんと分かるけど、多分1歳にもならない頃のこと、母もどうすることもできず困ってたら、その子供さんのお母さんが、

「ごめんね、でもなんもせえへんからね、ごめんね」

と、謝ってくれて、

「すごく申し訳なかったけど、どうしようもなくて」

と、言ってたのを聞いたことがあります。

そういう話を色々聞いてたので、

「じゃあ、私が落とされたのはあかつき湯やったんやなあ」

と、父親に言ったら、

「いや、それはまた違う」

と、父親が覚えてた!

私が落とされたのは、大伯母の料亭の近くにあった、もっと大きい銭湯だったそうです。
どうも父親も話を聞いて覚えてたらしい。
もう落とした人2人も、それを話してくれた母も亡くなってしまっているので、どこに行ったのか永遠の謎かと思ってたんですが、思わぬところから証言を得ることができました。

そこのお風呂屋さんは名前が分かりません。
丸い湯船のお風呂屋さんは友人に聞いて分かったので、今は知っていますが、そこもずっと分かっていませんでした。
でもやっぱり「垢つき湯」の冗談が一緒になっていた「あかつき湯」は覚えてました(笑)

今は、すぐ近くに通えるような銭湯はないんですが、時々、大きいお風呂でゆっくり手足を伸ばして入りたいなあ、と思うことはあります。
スーパー銭湯でも近くにあればなあ。
今度足を伸ばして行ってみようかな。

丸い湯船のお風呂屋さん ~ひよこの聞き語り(30)

父親のお友達に初孫さんが生まれたそうで、お宮参りの話から、うちのお宮参りの時の写真を見せることになりました。
えーと、見事に白黒写真(笑)

そんなことから昔の写真を父親と見てて、

「そう言えば、おばちゃん(一番上の伯母さん)の近所のお風呂屋さんに丸い湯船があったの知っとう?」

と聞いたら、知らないという返事。

「前に言うたけどなあ」

と、もう一度説明(笑)

私が子供の頃の記憶に「丸い湯船があるお風呂屋さん」がありました。
もう祖父母はずっと前に亡くなってしまっていたので、この伯母さんの家が母の実家みたいな感じで、私を産んだ時もここに里帰りしていました。

子供の頃、土曜日はまだ半日、お昼まで学校があったんですが、日曜日になるとこの伯母さんの家かその近くにある大伯母の料亭に行ってました。
なので半分は花隈や元町で育ったような感覚です。

伯母さんの家にもお風呂はあったんですが、ほぼ一人暮らしだったので掃除をしたり沸かしたりが面倒だからか、銭湯に通っていました。

私が勝手に思うことですが、さびしがりだから、社交的な意味合いもあったんじゃないかなあ。
ご近所の人とお付き合いはよくしてたので、あっちこっちで出会っては話してたような気がする。

大人になって、その「丸い湯船のお風呂」の話をしても、母も伯母(母のすぐ上の伯母さん)もいとこも、みんな「覚えてない」と言うんです。
その頃にはそのお風呂屋さんを一番知ってる一番上の伯母さんはもう亡くなっていたので、誰に聞いても不明のままでした。

長年そうだったんですが、社会人になってからできた友人が、たまたまそのお風呂屋さんの近くに住んでいました。

その友人のお宅が、たまたまそのお風呂屋さんのごく近所で、家風呂はあるんですが、大きいお風呂がいいからと毎日のようにそこに通っているんです。
これは、家族が減った今もそのようです。

友人とは長い付き合いになりますが、ずっとお風呂屋さんの話はしてませんでした。
私も年中覚えてるわけではありませんしね。

そしてある時、

「そう言えば○○さんの行っとうあのお風呂屋さん、私も小さい頃に行っとったことあるみたい」

てな話になり、

「その時に丸い湯船があったんちゃうかなと思うねんけど、家族はみんな知らん言うねん」

と言ったら、

「あったよ、昔あった」

と言われてびっくり!

だって、私がそこのお風呂屋さんに行ってとしたら、2、3歳ぐらいの時のことなんです。
確かにかなりちびだったみたいで、湯船に入ったら座ると顔が浸かってしまうので、立って入ってた記憶があります。

話を聞いてみると、どうもずっと昔、友人や私がまだ小さい頃に改装したか何かでなくなってしまったようですが、確かに小さい頃にはあった、そうです。

彼女とは、母が元町に住んでた頃は彼女のお母様も元町の比較的近くに住んでらっしゃったりして、思わぬところで接触があっても不思議じゃないという不思議な関係なんです。

それで母親にそれを話しても、「覚えてないなあ」でしたが(笑)

何にしても、数十年後に確かにそういうお風呂があった、ということが証明できてすっきりしました。

父親が言うには、そのお風呂に入ったことは、多分本当に幼い頃だろう、とのことです。
花隈に泊まった時とかには、大伯母の料亭近くにある、もっと大きい銭湯に行くか、料亭にある大きい客用のお風呂に入る方が多かったらしい。

まだ小さい頃は、伯母の家近くにある銭湯の方が、行きやすかったんでしょうね。
それに、私が小学校の半ばぐらいから、伯母さんは病気でよく入院とかしてたので、行っても世話してもらうようなことにはならなかったのかも。

そうそう、そう言えば、そのお風呂に私は落とされたことがあるんだそうです。

まだ私が赤ん坊の頃、母のすぐ上の伯母さんと、伯母の娘のいとことがまだ小さい私をお風呂に連れて行ってくれたらしいんですが、湯船に浸けようとして、

「あ!」
「あ!」

と、2人の目の前で湯船にどぼん!

どうしよう!と思うまもなく、

「あ・・・」
「あ・・・」

底についたのか、ゆっくりぷか~んと浮かんで上がってきたそうです(笑)

そのおかげか、運動は全般的にどれもできないのに、不思議と泳ぎだけはできるようになりました。
丸いお風呂のおかげ、かな?(笑)

わたくしタケヨともうします ~ひよこの聞きがたり(29)

前回話した母の一番上の15歳年上の姉である伯母さんですが、戦争未亡人です。

大正生まれなんですが、どうも夫とは恋愛結婚だった、のかな。
旦那さんはとっても素敵な方で、ライバルがいたのに自分が勝って結婚した、と母に聞いたことあります。

ただ、

「結婚はしたものの、旦那さんはすぐに軍属で戦地に行き、ほとんど一緒に住んだことがないから本当に勝ったのかどうか」

とも母は言ってました。

伯母さんは母の兄弟姉妹の中でちょっとだけ毛色の違う人でした。

多分、祖父母の一番上の子供として生まれ、次の伯父さんが生まれるまでの間の7年を一人っ子のお嬢さんとして大事に育てられてたからなのかな。
さびしがりのちょっとわがまま、それで素直でないので、兄弟姉妹や他の人ともぶつかってりして、そこそこトラブルメーカー的な部分もあったようです。

母と親子ほど離れているせいか、私が物心ついた頃はもうそんな感じじゃなかったですけどね。
ひょっとしたら、長い間病気をしていたこともあるかも。

とにかく、後に夫になった方のことが大好きで大好きで、結婚する前だったか後だったか分かりませんが、まだ小さかったうちの母や下の叔父さんに、

「○○さん、お元気ですか」

と、手紙を何通も書かせていたりもしたようです。

その方を、結婚が決まったからかなあ、大阪の親戚の方に紹介した時のことを、母達から何回か聞きました。
そのおかげでその親戚の方とどういう関係で、なんていう名前の方かを忘れられなくなったんですが(笑)

その方は「タケヨさん」という名前で、母達の「ふたいとこ」にあたる女性です。
親戚の話は色々聞いても、名前と関係性をはっきり覚えてるのはこの方ぐらいかなあ。

ある時、その「タケヨさん」に伯母さんの結婚相手を紹介することになったんですが、伯母さんがものすごく緊張してしまい、

「こ、こ、こ、この人ね、わ、私の、お、お父さんの、い、い、いとこの、子供ですねーん!」

みたいに紹介してしまったのだとか(笑)

大好きな婚約者(まだ多分結婚してなかったと思うので)にこんな風に言ってしまったからか、その後で照れ隠しみたいに、

「あはは、あははははー」

と、また大きな声で笑ってしまった伯母さん、ちょっとかわいい(笑)

そうしたら、今度は紹介された「タケヨさん」が、まるでお茶かお花か小笠原流の師範でもあるかのように、

「わたくし、タケヨと申します・・・」

と、三指を突いて、非常に丁寧に上品に自己紹介して、2人の対比がそりゃもう・・・(笑)

そのことを、母の上の伯母さんと母と叔父さんの3人で、何かの替え歌なのかな、こんな風にして笑って伯母さんの前で歌ったりしてたんだそうです。

「わたくしタケヨともうします~おと~うさん、おと~うさんの、いとこのこどもでございます~わははのわははのわははのは~」

ちょっと確実にしっかり覚えてませんが、なんかこんな感じ(笑)

その2番か進化系か分かりませんが、アレンジもあって、

「この人、このやつ、わたくしの、おと~さん、おと~さん・・・」

みたいなのもありました(笑)

ちびども3人が前でこの歌を歌うと本気で怒ってたそうですが、想像すると笑ってしまう(笑)

ただ、それほどの大恋愛だったのに、結婚しても上に書いたようにほとんど一緒に住んでいなくて、生まれた娘も赤ちゃんのうちに一度お父さんに抱っこしてもらっただけで、ボルネオで亡くなったそうです。

最後までさびしがりで、甘えたで、愛すべき伯母さんでした。
長女なのに、兄弟姉妹みんながこの伯母さんの保護者みたいに私には見えてました。
今はあちらで大好きな伯父さんと仲良くできてたらいいな、としか。