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丸い湯船のお風呂屋さん ~ひよこの聞き語り(30)

父親のお友達に初孫さんが生まれたそうで、お宮参りの話から、うちのお宮参りの時の写真を見せることになりました。
えーと、見事に白黒写真(笑)

そんなことから昔の写真を父親と見てて、

「そう言えば、おばちゃん(一番上の伯母さん)の近所のお風呂屋さんに丸い湯船があったの知っとう?」

と聞いたら、知らないという返事。

「前に言うたけどなあ」

と、もう一度説明(笑)

私が子供の頃の記憶に「丸い湯船があるお風呂屋さん」がありました。
もう祖父母はずっと前に亡くなってしまっていたので、この伯母さんの家が母の実家みたいな感じで、私を産んだ時もここに里帰りしていました。

子供の頃、土曜日はまだ半日、お昼まで学校があったんですが、日曜日になるとこの伯母さんの家かその近くにある大伯母の料亭に行ってました。
なので半分は花隈や元町で育ったような感覚です。

伯母さんの家にもお風呂はあったんですが、ほぼ一人暮らしだったので掃除をしたり沸かしたりが面倒だからか、銭湯に通っていました。

私が勝手に思うことですが、さびしがりだから、社交的な意味合いもあったんじゃないかなあ。
ご近所の人とお付き合いはよくしてたので、あっちこっちで出会っては話してたような気がする。

大人になって、その「丸い湯船のお風呂」の話をしても、母も伯母(母のすぐ上の伯母さん)もいとこも、みんな「覚えてない」と言うんです。
その頃にはそのお風呂屋さんを一番知ってる一番上の伯母さんはもう亡くなっていたので、誰に聞いても不明のままでした。

長年そうだったんですが、社会人になってからできた友人が、たまたまそのお風呂屋さんの近くに住んでいました。

その友人のお宅が、たまたまそのお風呂屋さんのごく近所で、家風呂はあるんですが、大きいお風呂がいいからと毎日のようにそこに通っているんです。
これは、家族が減った今もそのようです。

友人とは長い付き合いになりますが、ずっとお風呂屋さんの話はしてませんでした。
私も年中覚えてるわけではありませんしね。

そしてある時、

「そう言えば○○さんの行っとうあのお風呂屋さん、私も小さい頃に行っとったことあるみたい」

てな話になり、

「その時に丸い湯船があったんちゃうかなと思うねんけど、家族はみんな知らん言うねん」

と言ったら、

「あったよ、昔あった」

と言われてびっくり!

だって、私がそこのお風呂屋さんに行ってとしたら、2、3歳ぐらいの時のことなんです。
確かにかなりちびだったみたいで、湯船に入ったら座ると顔が浸かってしまうので、立って入ってた記憶があります。

話を聞いてみると、どうもずっと昔、友人や私がまだ小さい頃に改装したか何かでなくなってしまったようですが、確かに小さい頃にはあった、そうです。

彼女とは、母が元町に住んでた頃は彼女のお母様も元町の比較的近くに住んでらっしゃったりして、思わぬところで接触があっても不思議じゃないという不思議な関係なんです。

それで母親にそれを話しても、「覚えてないなあ」でしたが(笑)

何にしても、数十年後に確かにそういうお風呂があった、ということが証明できてすっきりしました。

父親が言うには、そのお風呂に入ったことは、多分本当に幼い頃だろう、とのことです。
花隈に泊まった時とかには、大伯母の料亭近くにある、もっと大きい銭湯に行くか、料亭にある大きい客用のお風呂に入る方が多かったらしい。

まだ小さい頃は、伯母の家近くにある銭湯の方が、行きやすかったんでしょうね。
それに、私が小学校の半ばぐらいから、伯母さんは病気でよく入院とかしてたので、行っても世話してもらうようなことにはならなかったのかも。

そうそう、そう言えば、そのお風呂に私は落とされたことがあるんだそうです。

まだ私が赤ん坊の頃、母のすぐ上の伯母さんと、伯母の娘のいとことがまだ小さい私をお風呂に連れて行ってくれたらしいんですが、湯船に浸けようとして、

「あ!」
「あ!」

と、2人の目の前で湯船にどぼん!

どうしよう!と思うまもなく、

「あ・・・」
「あ・・・」

底についたのか、ゆっくりぷか~んと浮かんで上がってきたそうです(笑)

そのおかげか、運動は全般的にどれもできないのに、不思議と泳ぎだけはできるようになりました。
丸いお風呂のおかげ、かな?(笑)

シンプル初鍋

「ミリフィーユ鍋が食べたい」

と、クマ旦那さんから要望があり、土曜日に作りました。

今日、実家で食べるものを考えてて、

「そうや、お鍋にしよう、一緒には食べられないけどいいだろう」

と、父親と「水炊き」を食べました。

父親は「ミルフィーユ鍋」が好きではない。
クマ旦那さんは「水炊き」も好きだけど、今は「ミルフィーユ鍋」の方が食べたい。
ってことは、実家で「水炊き」すればいいじゃないの。

鍋物する時は3人揃った時がいいと、冬でもなかなかお鍋をする機会がないんですが、別でもいいんじゃないかな。
まあ、作る私がしんどいだけです(笑)

実家で2人分なので、ささっと準備出来ました。
早めに作っておいて、夕方時間が来たらさっと作ってさっと食べて終わり。

「今日はシンプルになったけどいいよね♪」

そう言って、父親と一緒に食べ終わりました。

そして思い出した・・・

「あー!糸こんと焼き豆腐忘れてた!」

今日のお鍋の具材は「カワハギ」「豚肉」「鶏肉」「白菜」「白ネギ」「エノキタケ」だったんです。
本当は「春菊」とか青菜類が欲しかったんですが、何しろお高い。

別に無理に入れなくていいや、と上記の具材を準備してたので、

「今日は種類が少ないシンプルなお鍋」

と、思い込んでたので、すっかり忘れてしまってました!

「そりゃ魚、豚、鶏、白菜、ネギ、エノキだけやったらシンプルやわ・・・」

もう食べ終わったので後の祭り(笑)

そこで、

「せっかく残ってるから明日もまたお鍋にしよか」

と、いうことになりました。

明日は忘れないようにしよう!(笑)

わたくしタケヨともうします ~ひよこの聞きがたり(29)

前回話した母の一番上の15歳年上の姉である伯母さんですが、戦争未亡人です。

大正生まれなんですが、どうも夫とは恋愛結婚だった、のかな。
旦那さんはとっても素敵な方で、ライバルがいたのに自分が勝って結婚した、と母に聞いたことあります。

ただ、

「結婚はしたものの、旦那さんはすぐに軍属で戦地に行き、ほとんど一緒に住んだことがないから本当に勝ったのかどうか」

とも母は言ってました。

伯母さんは母の兄弟姉妹の中でちょっとだけ毛色の違う人でした。

多分、祖父母の一番上の子供として生まれ、次の伯父さんが生まれるまでの間の7年を一人っ子のお嬢さんとして大事に育てられてたからなのかな。
さびしがりのちょっとわがまま、それで素直でないので、兄弟姉妹や他の人ともぶつかってりして、そこそこトラブルメーカー的な部分もあったようです。

母と親子ほど離れているせいか、私が物心ついた頃はもうそんな感じじゃなかったですけどね。
ひょっとしたら、長い間病気をしていたこともあるかも。

とにかく、後に夫になった方のことが大好きで大好きで、結婚する前だったか後だったか分かりませんが、まだ小さかったうちの母や下の叔父さんに、

「○○さん、お元気ですか」

と、手紙を何通も書かせていたりもしたようです。

その方を、結婚が決まったからかなあ、大阪の親戚の方に紹介した時のことを、母達から何回か聞きました。
そのおかげでその親戚の方とどういう関係で、なんていう名前の方かを忘れられなくなったんですが(笑)

その方は「タケヨさん」という名前で、母達の「ふたいとこ」にあたる女性です。
親戚の話は色々聞いても、名前と関係性をはっきり覚えてるのはこの方ぐらいかなあ。

ある時、その「タケヨさん」に伯母さんの結婚相手を紹介することになったんですが、伯母さんがものすごく緊張してしまい、

「こ、こ、こ、この人ね、わ、私の、お、お父さんの、い、い、いとこの、子供ですねーん!」

みたいに紹介してしまったのだとか(笑)

大好きな婚約者(まだ多分結婚してなかったと思うので)にこんな風に言ってしまったからか、その後で照れ隠しみたいに、

「あはは、あははははー」

と、また大きな声で笑ってしまった伯母さん、ちょっとかわいい(笑)

そうしたら、今度は紹介された「タケヨさん」が、まるでお茶かお花か小笠原流の師範でもあるかのように、

「わたくし、タケヨと申します・・・」

と、三指を突いて、非常に丁寧に上品に自己紹介して、2人の対比がそりゃもう・・・(笑)

そのことを、母の上の伯母さんと母と叔父さんの3人で、何かの替え歌なのかな、こんな風にして笑って伯母さんの前で歌ったりしてたんだそうです。

「わたくしタケヨともうします~おと~うさん、おと~うさんの、いとこのこどもでございます~わははのわははのわははのは~」

ちょっと確実にしっかり覚えてませんが、なんかこんな感じ(笑)

その2番か進化系か分かりませんが、アレンジもあって、

「この人、このやつ、わたくしの、おと~さん、おと~さん・・・」

みたいなのもありました(笑)

ちびども3人が前でこの歌を歌うと本気で怒ってたそうですが、想像すると笑ってしまう(笑)

ただ、それほどの大恋愛だったのに、結婚しても上に書いたようにほとんど一緒に住んでいなくて、生まれた娘も赤ちゃんのうちに一度お父さんに抱っこしてもらっただけで、ボルネオで亡くなったそうです。

最後までさびしがりで、甘えたで、愛すべき伯母さんでした。
長女なのに、兄弟姉妹みんながこの伯母さんの保護者みたいに私には見えてました。
今はあちらで大好きな伯父さんと仲良くできてたらいいな、としか。

お箸が立つ雑炊 ~ひよこの聞き語り(28)

前回、前々回は戦時中の食事事情?のことを少しだけ書きました。
今回も食事のことです。

戦時中は色々な食べ物が配給制だったらしいのですが、その他にも「配給切符」のようなものがあったらしいです。

ただ、その「切符」を持っていても確実に食べ物が手に入るわけではありません。
多分、まだ神戸にいた頃かなあ、神戸の空襲より前のことじゃないかと思いますが、その「切符」にまつわる話を聞いたことがあります。

母の一番上の伯母さん、一人だけ年が離れた姉なので、母とは15、叔父とは18の差があります。
ほとんど親子みたいなものですね。

2番目に長男の伯父が生まれるまで、一人っ子のお嬢さんみたいに育った人なので、なんというか、まあ色々とかわいらしかったり色々逸話があります。
もしかしたら、祖父の一番いい時代に育ったからかなあ。

母や叔父ともそれだけ年が離れてるのにケンカしたり、色々あったようですが、

「配給の噂とかをどこからか聞いてきて、一緒に連れて行ってくれてた」

らしいです。

「切符」があっても長時間並ばないと手に入らない物も多いのに、

「どこどこのなんとかいうお店でお箸が立つ雑炊を出すらしい」

とかの情報を手に入れてきて、母と叔父を連れて長時間並んでは、

「ほんまにお箸が立つ」

とか言って、一緒に食べさせてくれてたとか(笑)

他には本物の甘い物とか、

「ほんまにどこから聞いてきてたのかよう知ってた」

とか。

もうかなり食料事情が悪くなっていた頃らしく、そうやって出す雑炊でも、お米なんかちょっとしか入ってなくて、お箸が立たないのが多かった頃に、本当にお箸が立つ雑炊はおいしかったでしょうね。

私がまだ小さい頃、アイスクリームケーキというと、クリスマスの時期にしかありませんでした。
その珍しいケーキを、この伯母さんがクリスマスの時には持って来てくれてたなあ。

そうそう、元町に初めて「マクドナルド」ができた時も、

「あそこはケチャップも自分のとこで作っとうねんて」

と、おみやげに持って来てくれてました。

そういう「新しい物」「珍しい物」が好きな人でした。

あ、そういえばこんなことも思い出した(笑)

伯母さんがある時、電話で、

「今度「おさつくっきー」というお菓子が出て、買うたげてるから今度来た時に食べ」

と言ってくれて、すごく楽しみにして行きました。

私は勝手に「お札クッキー」と頭の中で変換していて、

「外国のお札の形とかしたクッキーかな」

と、ドキドキして行ったら、

「サツマイモで作ったスナック」

で、すごくがっかりしたんだった(笑)

小さい頃の母と叔父も、なんだかんだ言いながら、伯母さんに引っ張り回されて、ある時には当たりに喜んで、ある時にははずれにがっかりしてたのかな。
なんとなく、様子が浮かぶように思います。

具のない焼き飯 ~ひよこの聞き語り(27)

前回は母親の超偏食だったことを書きました。
戦時中、いや、戦前戦後も合わせて食べ物のない時代でも、自分の嫌いなものは断固として食べなかった母の話です。

その母よりはましかも知れませんが、母の下の叔父さんもそこそこ食べ物には頑固です。

叔父さんは母より2歳下、元旦生まれの早生まれなので学年でいうと3つ下になりますが、愉快ですがやっぱりちょっとくせもの(笑)
超優等生だった上の伯父さんとは全く違うタイプですが、違った方向でむずかしい、かな。

ある時、うちの母親が叔父さんのお嫁さんに、

「あの子、焼き飯食べへんでしょ」

と言ったら、

「なんで分かるんですか?」

と、びっくりされたそうです。

話はやはり戦時中から戦後だと思うのですが、こんなことがあったそうです。

広島の風早という場所に疎開していた母親一家(祖母、長女、長女の娘、すぐ上の伯母、叔父、母)ですが、神戸で祖父が仕事をして多分仕送りもあったんでしょうが、疎開先でもじっと座っていたわけではありません。
子供達は学校がありますし、大人もそれぞれ仕事や役割がある。

祖母は疎開先のかなあ、農業とか手伝ったり色々やってたようです。
元が働き者の祖母、あちらこちらで重宝されたそうです。

母のすぐ上の伯母さんは役所(村役場?)に働きに行ってました。

長女の伯母、この伯母の嫁ぎ先(と言っても結婚してすぐに夫は「軍属」で外国に行ってしまったのでそのままずっと神戸にいたんですが)がここ、風早でした。
その御縁で母と叔父は学校単位の集団疎開ではなく、家族と一緒に疎開できたんだとか。

その長女の伯母は生まれて間もない娘を連れてたんですが、「代用教員」の仕事をしていました。
当時は男の人がみんな戦地に行ってしまったので、正式に教員としての資格を持たない人が教師をやったりもしてました、それが「代用教員」です。
神戸に帰ってからも伯母さんは子供に勉強を教える仕事、今でいう塾を家でやってましたので、この仕事が合ってたのかも知れません。

そうやって大人は忙しくしていたのと、食べ物が豊富ないなかと言っても、やっぱり今みたいになんでもかんでも売ってるわけではない。
それで、長女の伯母が母と叔父のお昼ご飯かな?を作って置いて行くとき、よく「焼き飯」を作って置いていってたんだそうです。

「その焼き飯が、入れるもんがなんもないから何も入ってない焼き飯でおいしくなかった」

と、母が言ってました。

「何も入ってない焼き飯」ってどんなの?
「具の入ってない焼き飯」らしいけど、例えばネギか何かは入ってて、ソーセージとかハムとか鶏肉とか、そういうのがない焼き飯だったみたい。

その「具のない焼き飯」がしょっちゅう出てくるので、叔父さんは焼き飯がすっかり嫌いになってしまったのだとか。
今と違ってレンジもないですから、具の入ってない冷めた焼き飯を何度も食べてたらげんなりもしますよね。

さすがの偏食の母も、その後は普通に焼き飯を食べるようになってたんですが、叔父さんはどうしてもだめになってしまったようです。
分かります、ありますよね、そういうこと。

この話を聞いたのはもうずっとずっと前なので、ひょっとしたら80を超えた今は食べるようになってるのかな?
今度聞いてみよう。
「そんなんどないでもええがな」と素直に教えてくれるかどうか分かりませんが。
ええ、そういう叔父さんなんです(笑)