「接収」タグアーカイブ

神戸の空襲と母の実家 ~ひよこの聞き語り(11)

自分勝手に両親は親族から聞いた昔のことを書いていってますが、回を重ねるごとに自分でも何を書いたか忘れるようになってきました(笑)

なので最初から全部に副題をつけてみました。
これでどういうことを書いたかタイトルを見て思い出せます♪

今日は、昨日ちらっと書いた神戸の空襲のことを書きたいと思います。

うちの母とその家族も神戸の空襲を経験してます。

幸いにも家族全員無事だったんですが、空襲の中、まだ小学生(正確には国民学校生)だった母は一度家族とはぐれ、もうちょっとでそのまま取り残されるところになり、すぐ上の伯母が探しに戻ってくれて家族と再会することができたそうです。

「ぼーっとしてしもて気がついたら一人やった」
「あのまま残されたら生きてなかったかも」
「おばちゃんに何しとん!と怒鳴られてはっとした」

そう言ってたのを聞きました。

そうしてなんとか家族は無事だったんですが、空襲で荷物の大部分を失うこととなりました。

空襲より前に母達の実家は「接収」されることになってました。
「接収」とは、国や軍に家や持ち物を取られること、お国に寄付させられることです。
嫌でもどうしようもありません。

この際だからと祖母、一番上の伯母とその娘、母のすぐ上の伯母、母、母の弟である叔父は広島の竹原に疎開することになりました。
一番上の伯母さんの夫の実家です。

そして祖父と、大学生で京都に下宿していた伯父が帰ってきた時に過ごすための家を借り、そこに荷物を移したんですが、皮肉なことに引っ越したその夜にその引越し先が焼けてしまいました。
もう一日引っ越しが遅かったら、実家は出なければいけないとしても荷物は無事だったでしょうにねえ。
竹原に送った荷物とおじさんの京都にあった荷物だけは無事だったようですが。

そのまま母達は竹原に行き、そこで終戦を迎えることになります。

「接収」された母が生まれ育った家ですが、戦後も返還されることはありませんでした。
実は今もそこの住所がうちの本籍地になったままです。
両親が結婚する時、父は愛媛が本籍だったので、神戸が本籍の方が便利だろうと母の本籍を選んだんです。
そして私の本籍もそこだったので、うちの苗字になったクマ旦那さんの本籍地も自然にそこになりました。

「これで自分も神戸っ子!」

と、大変喜んでますが、その本籍地、今はテニスコートになってます(笑)

一度だけ母と見に行ったことがあり、今もネットの地図で調べたらテニスコートのままです。

高松のおじさんも同じく本籍地を移していないのでうちと同じ本籍、そしておじさんの長男もそのままなのだそうです。
もしも国に取られていなかったら、あそこがうちのいなかだったかも知れない。
私が子供の頃、大伯母の料亭に一族集まってお正月をしていたように、あそこでみんなが集まっていたかも知れませんね。

アメリカさんと祖母 ~ひよこの聞き語り(7)

うちの両親やその家族に関わらず、第二次大戦を経験した方はまだいっぱいいらっしゃいます。
最低でも70歳以上ですけど。

昨日まで敵だと言ってたアメリカ軍がいきなり周囲に出現したり、今までの価値観がひっくり返されたり、そういう経験をしたことがないので、どんな気持ちだったのか、とかは想像するしかありません。
私も両親やその兄弟達からちらほらとは聞いてますが、それでも、ぐっと遠くの出来事、みたいな感じではあります。
そんなエピソードを一つだけ、ちょっと笑いを交えて(笑)

やはり母方の祖母のことなんですが、当時の普通のお母さんがそうだったろうと思えるように、やはり「鬼畜米英」を教えられていたもので、戦争に負けたと知った時は覚悟をしたようです。

「もしも、アメリカやイギリスが日本に上陸したら、お母さんはあんたらを殺して私も死にます!」

と、子供達に言っていたそうです。

結局、そういうことにはならずに済んだんですが、自分の子供にそういうことを言う気持ちはどうだったのか、想像するだけでも苦しいです。
そして、うちの母達は幸いにもそうならずに済んだんですが、実際に家族で自決された方もいらっしゃるんですよね・・・
「そういう時代だったんだ」で済む話ではありません。

ただ、うちの母の家族はその後数年して神戸に帰って来て、また家族みんなで暮らせるようになった、幸せだった、運が良かったと思います。

終戦の日、母達は広島にいたんですが、神戸に帰ってきて元町に住みました。
戦前に住んでいた家は国に接収されてそのまま戻ってこなかったんです。
それですぐに帰れなかったのかも知れませんね。

とにかく、帰った頃には小学生(正確には国民学校生)だった母が女学校を経て高校生になっていました。

元町には進駐軍も多くいたようで、うっかりと靴をはいたままで家に入ってこられた、ようなこともあったようですが、何にしろ「鬼」「悪魔」と思っていたアメリカ兵と接触する機会も少なからずあったようです。

ある日、祖母がおじさんの娘(祖母にとっては2番目の孫で私のいとこ)を抱いて家の外に座っていたら、アメリカ兵が近寄ってきて、

「カワイイベビサン、コノヒト(いとこを指さし)ママサン(祖母に)?」

と、片言の日本語で聞いてきたんだそうです。

そしたら祖母が、

「のーのー、この人(自分を指さし)ベビさんのーのー、この人(おじさんの奥さんでいとこの母親を指さし)ベビさんね」

と、ニコニコとアメリカ兵に答えた、んだとか。

たった数年前まで「来たら死ぬ!」とまで思っていたアメリカ兵にこの対応(笑)

祖父は英語を話せたらしいですが、祖母は時代的にもおそらく小学校か高等小学校しか卒業してなくて、それほど高度な教育は受けていないはずです。
なのにこの順応力(笑)
多分、たった一回の邂逅ではなく、ちょこちょことそういうこともあったんでしょうけどね。

神戸の元町という土地柄、そして祖父の仕事柄周囲に進駐軍の人が多くいた関係もあるんでしょうが、

「柔軟だなあ」

と、感心しました。

私だったら、殺されるとまで思った相手にそうできるかなあ。
できるような気もするし、できないような気もします。
その時にならないと分からない、かな。

ただ、祖母のエピソードの一つとして何回も聞き、そのたびに、

「おばあちゃんおもしろいなあ」

と思っていました。