「ひよこの聞き語り」カテゴリーアーカイブ

物がなくても食べられない~ひよこの聞きがたり(38)

今朝のテレビで「戦時中の食」のことをやっていました。
それでふと思い出したことを・・・

うちの母親は広島の「風早」というところに疎開していました。
疎開したのは母の一番上の姉の夫の家です。
母の姉とその娘、それから祖母、母の二番目の姉、母、母の弟の6人でお世話になったそうです。

それまでは神戸に住んでいたのでそれなりに食事情は良くはなかったようです。

母の一番上の姉(母とは親子ほど年が違う)が、

「どこそこの食堂でお箸が立つ雑炊の配給がある」

との情報で伯母と母、母の弟などでその食堂に行き、お箸を立てたら本当に立った、とか話していたことがあるので、不自由しない食生活ではなかったのでは、と思われます。

ただ、祖母は、

「ちゃんと食べてるのに」

と言ってたというので、一番上の伯母さんが楽しみで行ってた部分の方が大きいみたいです。

何しろそういうの好きな人だったんです(笑)
私が中学の時に亡くなったんですが、「これ今度出た○○」とか、珍しいものとかがあると買ってくれたりしてました。

それと、今は健康志向で「麦飯」「雑穀米」みたいなご飯を食べたりしますが、うちは両親共にそういうのが嫌いで、私が食べたくて炊いた時など情けなそうにして、特に母が、

「ご飯だけは白いのが食べたい」

と言ってたのは、

「戦時中に麦飯が嫌でたまらなかった」

からだと言ってたので、神戸にいる間は麦飯や、白いご飯だとしてもそれこそ「お箸が立たない雑炊」だったのかも知れません。

それが「風早」に疎開してからは、

「白いご飯がお腹いっぱい食べられて、そこにおいしいお漬物、あれだけでももう満足やった、おいしかったなあ」

と、母の二番目の姉が何回も言ってたので、おかずはともかく、ご飯には不自由しなくなったようです。

ところが、うちの母親は、私も大人になって分かったんですが、かなりの偏食、それもかなり頑固な偏食だったようで、

「ご飯以外にお漬物しかなくて、食べられないのでお塩かけたご飯だけ食べてた」

らしい(笑)

物がなくて食べられない時代にも関わらず、食べる物がそれしかないにも関わらず、それでも頑固に食べなかった母の偏食、ちょっと笑ってしまいました。

他にもこういう話がいくつかあります。

「子ども達は畑からトマトをもいで食べてたけど絶対食べなかった」
「子ども達は海にもぐってカキを取って海水ですすいでおやつに食べてたけど絶対食べなかった」

トマトもカキも、もちろん大人になってからも食べませんでした、母(笑)

偶然、作家の「北杜夫」さんがやはり子供の頃にトマトが苦手で食べなかったんですが、戦時中に同じような状況でもらったトマトを1つは友達にあげて、残った1つを食べるものがなかったからかかじったらおいしくて「あげたのを後悔した」と書いてたんですが、母は同じようにはならなかったようです。

私だったら、お腹が減ったらやっぱり食べてしまうと思います。
空腹だったら、よっぽど変なもの以外だったら、ただの好き嫌いだったら、やっぱり食べるだろうなあ、お漬物もトマトもカキも。
それを、空腹を我慢してでも食べない、う~ん、一本筋が通った偏食です。

ついでに、うちの叔父さんは、戦時中にやはり食べたものでその後絶対食べなかったものがあるようです。

「一番上の姉が仕事に行く前に作ってお昼ご飯に置いていってくれた焼き飯が具のない焼き飯でおいしくなかった」

らしくて、焼き飯を食べなかったそうです。
叔父さんが結婚してしばらくして、母が叔父さんの妻になった叔母さんに「焼き飯食べへんでしょ」と言ったら「なんで知ってるんですか?」とびっくりしてたそうです。

それからもう半世紀以上経ってるので、もしかしたら食べるようになってるかな?
今度電話した時に覚えてたら、叔父さんに聞いてみたいと思います。
もしも、今でも食べられなかったら、こっちもいい勝負ですね(笑)

オスの三毛猫 ~ひよこの聞きがたり(37)

NHKのプレミアムで「岩合光昭の世界ネコ歩き・ミニ」という番組をやってます。

朝、起きたらテレビをつけて、というかあっちがタイマーでついてくれて起こしてくれて一日がスタートしてます(笑)
7時になって地上波からBSに替えたら、その流れで見る番組です。
毎週ずっとじゃなく、季節替わりみたいにやってるんですが、今日からはまたこれになりました。

その時に、

「オスの三毛猫」

の話題が出てきたんですが、それで思い出した話です。

「オスの三毛猫」って少ないんだそうですね。
どうしてか調べてみたら、三色の色のうち「オレンジ」の遺伝子がオスにはなく、出るのは「遺伝子異常」で出るから、だそうです。

染色体異常が原因ですから、「オスの三毛猫」が生まれるのは本当に少なく、さらに繁殖力があるオスはもっと貴重なんだとか。

そして「オスの三毛猫」は「航海の守り神」として大事にされます。
普通の三毛猫でもそうなのかな?
今朝のテレビでもそういう話をやってました。
港町で大事にされていると。

うちの母親が生まれ育ったのは神戸です。
神戸もやはり港町、坂の途中に発展した町からは、どこからでも海が見えるような感じです。

うちの母の生まれた家で飼ってた猫の「チイ」が「オスの三毛猫」を生む猫だったらしいのです。
それでそれを聞きつけた船乗りさんが「譲ってほしい」ということで、何度も譲ったのだとか。
何匹も産んだっていうことは、やはり染色体、遺伝子の関係なんでしょうね。

母の家の猫は代々「チイ」だったそうで、何代目の「チイ」かは分かりませんが、そういう子がいたんだそうです。

いつだったか、高松のおじさんと話をしてたら、

「猫の名前、なんやったかなあ」

と言うので、

「猫は代々チイでしょ」

と言ったら、

「よう知っとんなあ」

と笑ってましたが、おじさんによると、

「昔のことは○○(私です)に聞け」

らしいです(笑)

もう他に聞く人もほとんどいません。
私が伝え聞いたこと、やっぱりこうしてちょぼちょぼ書き残しておきましょう。
私も忘れてしまわないうちに。

広島浅野家 ~ひよこの聞きがたり(36)

今日は赤穂浪士の討ち入りの日です。

我が家では昔からずっと、この日は「討ち入りそば」を食べることになってます。
特に意味はなく、「メニューを考えなくていいから」ですが(笑)
丑の日にうなぎ、冬至にカボチャを食べるのと同じですね。

ただ、直接の関係は全くないんですが、少しだけ、ちょこっと思うことがあります。

赤穂浪士の討ち入りの原因になったのは、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったことです。
日本人の大部分が知ってるお話ですよね。

その浅野内匠頭の赤穂藩、その本家が広島の浅野家なんです。
私の母方のご先祖は、その浅野家の家臣でした。
何回か、そのことを母から聞いたことがありました。

でもまあ、家臣ですから、やっぱり全然関係はありません(笑)

ただ、浅野内匠頭の弟、浅野大学という方が、赤穂の浅野家がお取り潰しになった後で「広島浅野宗家にお預け」になってるんですよね。

「うちのご先祖様はひょっとしたら大学さんを遠くからでも見たのかなあ」

その程度のことを考えたりしたことはあります。

歴史って本当に面白いです。
自分が生まれるずっとずっと前の、全く想像もつかない昔のことでも、そういうところでちょこっと引っかかったりして、また興味を持てたりしますから。
ほとんど何も知らないご先祖様ですが、その人がひょっとしたら、遠くからでも見たのかな?話をしたことあるのかな?と考えるだけで、なんだかドキドキしてしまいます(笑)

もう一つの「南の哀愁」 ~ひよこの聞き語り(35)

うちの母方の女連中、一度は宝塚歌劇の洗礼を受けます(笑)

私も小学校から高校まで、毎月のように全部の公演を観に行ってました。
母と妹と3人だったり、いとこと妹と3人だったり妹と2人だったり。
連れは色々ですが、本当に好きだったなあ。

今は、時々思い出したように行ってます。
一度見ると「また行きたいなあ」と思うんですが、今は、毎公演行くほど、ではありませんね。
好きなんですが、きりがない(笑)

母もやはり子供の頃から宝塚をずっと観て育ってきてるんですが、戦後、まだ広島にいる頃に、多分祖父からでしょうね、再開した宝塚のプログラムを送ってもらい、演劇部か何かでお芝居をやったりもしてたようです。

その演目が「南の哀愁」です。
宝塚の有名な作品の一つで、今までに何回も何回も再演されています。
調べてみたら初演は昭和22年なので、時代的に、多分、その初演の時のプログラムを送ってもらったと思います。

今は違いますが、以前は宝塚のプログラムには脚本が全部掲載されてました。
その脚本を元にして、文化祭か何かでミュージカルをやったそうです。

お芝居のストーリーやセリフは脚本があれば分かるんですが、問題は歌の部分です。
楽譜も、私が観に行ってた頃は売ってたんですが、今はないみたいですね。
というか、脚本や歌集はまた別の本として出しているそうです。
買ったことはありませんが。

当時すでに歌集を売っていたのかどうか分かりませんが、母の手元に届いたのは脚本だけだったので、曲は音楽の先生に作ってもらうことになりました。

「だから南の哀愁に2つの音楽がある」

と、母が自分達の「南の哀愁」の歌も歌ってくれてたので、私にも2つの「南の哀愁」があります。

オリジナルの宝塚の方は、

「み~なみの~しま~、み~わくのしま~、さ~よ~うる~わし~、わ~が~た~ひち~」

みたいな音楽ですが、母達のは、

「みなみのしぃま~~~、みわくのしぃま~」

みたいな感じ。

とても全部は覚えてませんが、今でも「南の哀愁」と聞くと2つの音楽が浮かびます。

どんなだったのかなあ。
もしもタイムマシンがあったなら、母達の「南の哀愁」をこっそり観に行きたいものだ、と思ってます(笑)

下駄でタップダンス ~ひよこの聞き語り(34)

寒いですね、一気に1月末の気温だとか言われてますが、本当に寒くて堪えます。

外に出て寒くても、帰ってきて暖房を入れて「温かい家にいられてよかったなあ」と幸せです。
お風呂にも入ってほっこりしてさらに幸せ。
風邪っぴきですが、少しずつ治ってきて、これまた幸せです。

そういう小さい幸せを感じながら、ふと母方祖母のことを思い出しました。

祖母、小さい幸せを大事にする人だった、と私は思いました。

特に教育があるわけではない人ですし、何か信仰してたわけでもないですが、「分け与えるということを知ってた人」だと、私は色んな人の話を聞いて思いました。

今はもういなくなったと思いますが、昔は「おもらいさん」という人がよくいたようです。
まだ戦後間もない頃の話ですけどね。

そういう人が来ると、祖母は、自分の家もそうなんでもかんでもあるわけじゃないけど、とにかく食べ物だとか何か物、場合によってはお金もあったのかなあ、そういうのをあげていたようです。
自分は特に贅沢する人じゃないし、何かを欲しがる人でもなかったみたいですが、困った人をほっとけない人でもあったのかも。

一度そういう人にあげたら、やっぱりネットワークと言うんですかね、「あそこに行くと何かもらえる」と、ちょこちょことそういう人が尋ねてきていたとか。

そしてある年、祖父が死の床についてる時にもやっぱりそういう人が来たんですね。

祖母が玄関に出て行って、確か古い服か何かをあげたと聞いたように記憶してます。

そうしたら、その「おもらいさん」がすごく感謝して、

「返せるものがないから、せめてこれを」

と、玄関で、下駄を履いてタップダンスを始めたんだとか。

あれ、ひょっとしたら、その下駄をあげたんだったかな?
何しろ、身に付ける物だったように記憶してるんですが、そのへんが曖昧で・・・

とにかく、状態としては、部屋の中では祖父が亡くなる少し前です。

「もういいから」

と、祖母が返そうとするんですが、申し訳ないからと、しばらく踊ってから帰っていったそうです。

困っただろうなあ。
どういう気持だったかなあ。
おじいちゃんんの耳にもタップの音、聞こえただろうか?
おばあちゃんのこと、しょうがないな、と笑ったかなあ。

色んなことを考えてしまいます。
悲しい時のことですが、一応、ちょっと笑ってもいいんじゃないかな、と思います。
祖母の人柄が出てる話、と私は思ってます。