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交換されそうになった母 ~ひよこの聞きがたり(24)

前々回の「小町だった曽祖母」で生まれたばかりの母を「また女ですわ」と言った曽祖母ですが、やはりこちらの祖母でした。

今日、父親と話していて聞いたら間違いなかった。
よかった、冤罪じゃなくて(笑)

父親と結婚する前に母の両親とも亡くなっているんですが、家と会社が近かったりと、父は多少祖父母のことを知っていることがあるんです。

父によると、やはり祖父の両親である曽祖父母のことは聞いたことがほとんどないみたい。
ひょっとしたら、神戸に来て割りと早くに亡くなってしまったのかも知れない。
調べたら分かるんでしょうが、今のところはそこまでしか分かりません。

それで、その母が生まれた時のことなんですが、曽祖母にそう言われて祖母はかなり傷ついて悩み、実際に交換しようかという話が出ていたようです。

相手は祖母の妹か姉。
多分妹だったと思うので、ここでは一応妹(仮)で話を進めたいと思います。

祖母の姉妹はおそらく5人、全員女の子だったようです。

一番上が神戸の花隈で料亭をやっていた長女で、私が高校2年の時に亡くなりました。
私達はこの人のことを「大きいおばあちゃん」と呼んでました。

一番下が「大きいおばあちゃん」と一緒に料亭をやっていたのかどうか分かりませんが、一緒に料亭に住んでいた人で、私達はこの人のことを「小さいおばあちゃん」と呼んでました。
大層なべっぴんさんだったんですが、私が小学校2年の時に亡くなりました。

間に3人いるはずなんですが、1人は分かりません。
私はどういう人だったか聞いたことがないので、ひょっとしたら若いうちに亡くなったのかも知れません。

残った2人が私の祖母と、その妹(仮)でした。

祖母は上から女、男、女、女(母)、男が成人した子供です。
そして妹(仮)は上から女、男、男、男が成人した子供です。

妹(仮)は最初の人と死別か離別したらしく、一番上の女の子は「大きいおばあちゃん」夫婦の養女になってました。
これは、かなり大きくなるまで隠していたようですが、私が物心つく頃には、もう普通にみんな知っている事実でした。

この女の子の後、ちょっと間が開いてから次の父親の子として3人の男の子が生まれました。
この3人がうちの母親と大体同じ年代です。

どうやら曽祖母は、そちらには「また男の子」と言ってたようです。
う~ん、なんか、結構、いやかなり性悪ですなあ、曽祖母(笑)

そう言われたその妹(仮)も悩んでおり、姉である祖母と、

「男の子と女の子1人ずつ交換しようか」

という話が出ていたんだとか。

あちらの次男とうちの母親がほぼ同じぐらいの年だったかな、その2人を交換する、そんな感じです。

どういう状態でその話が出たのか分かりませんが、祖母がその話を祖父にしたら、叱られたそうです。

「男の子でも女の子でもうちの子には変わりない、そんな馬鹿なことは考えないように」

と言われ、交換はなくなったとか。

もしも、その時に母とあちらの次男が交換されてたら、母と父が出会うこともなかったかも知れない。
そうしたら、私も妹も生まれてないかも知れない。
そう考えると、ものすごく私と妹の運命を左右する出来事だったんだなと思います。

それにしても、どっちでもええやん、自分の孫やのに・・・
ちょっとひいおばあちゃんを叱りたい気持ちです(笑)

小町だった曽祖母 ~ひよこの聞き語り(22)

前回まで書いてた広島から神戸に出てきた曽祖父母ですが、これは母の父の両親の話です。

残念ながら、それ以外は全くどういう人だったのか聞いた記憶がありません。
「没落して広島から神戸に来たこと」と「長男を早くに亡くしていること」だけです。

今日は母の父方ではなく、母の母方の曽祖母のことをちょっとだけ書きたいと思います。
この方のこともほぼ知らないんですが、母からちょろっとだけ聞いてることがあるのでそのことを。

母の母の母である曽祖母は、どうやら美人だったそうです。
元々が明石の造り酒屋の娘で、若い頃は「江井ヶ島小町」と呼ばれていたそうです。

その小町さんがどういう経緯で神戸に嫁いだのかまでは分かりませんが、明治も後半ぐらいの時代のことなので、多分お見合いじゃないでしょうか。

ただ、うちの母親は、この曽祖母、母から見た祖母とはあまり合わなかったらしいです。
母が小学生の頃に亡くなったので、合うとか合わないとか言う以前じゃないかと思うんですが、少なくとも母は「嫌いだった」と言ってました。

どうして嫌いだったかと言うと、今はあまり使ってはいけない言葉を投げられていたから、だそうです。

うちの母は、私が知ってる大人になった母ですが、よく歌ったり踊ったりしてました。
どっちかと言うと陽気な人だと思います。

ただ、子供の頃はかなり難しい子供だったらしい。

例えば、母の兄弟姉妹は全員、そして私や妹も「生田神社」の氏子で、伯父伯母達は小さい頃にお祭りで「お稚児さん」をやってたらしいのですが、幼い母だけは断固として「嫌」と言ってやらなかったとか。
高校時代には演劇やってたり、大人になってからは社交ダンスやったりしてたらしいので、とっても信じられませんが、とにかくそういう子供だったとか。

そして曽祖母と会う時にもほとんど口をきかなかったらしい。

あまり今は使っていい言葉ではないんですが、時代的なことで、具体的にそう言われてたらしいので書きますが、あまりに話さないので、曽祖母からいつも、

「おまえはおしか?」

と、言われていたんだそうです。

会う度に言われ、

「それで余計に口をきかなかった」

と言ってたので、孫にそういうこと言う祖母も祖母なら、孫も孫だと思いますが、まあ、そういう感じだったとか。

それともう一つ、これは母の父方か母方かはっきりしないので、もしも祖父の母である曽祖母の話だとしたら、小町の曽祖母には大変申し訳ない間違いになるんですが、どうもこの方だったんじゃないかなと思うので、もう一つエピソードを書きたいと思います。

母には姉が2人と兄が1人、そして弟が1人います。
上から、女、男、女、母、男の順番なんですが、その1番目と2番目の間に1人か2人、そして上の伯母と母の間でも1人亡くなってるいるそうなんです。
1番上の伯母と2番めの伯父の間は7つ開いていて、その間で亡くなったのが男の子で、母のすぐ上で幼いうちに亡くなったのは女の子でした。
なので母は少なくとも4女になります。

その段階でまだ下の叔父は生まれてなかったので男の子は2番目に生まれた長男の伯父だけです。

そして4番目の女の子の母を産んだばかりの祖母が、まだ床上げもしてない時に曽祖母が、お祝いを言いに来てくれる見舞客に、

「また女ですわ」

と繰り返し言っていて、それを耳にした祖母はいたく傷つき悩んだらしいのです。

私の中ではそれもその小町の曽祖母だとずっと思っていたので、「美人だけど性悪な人」なイメージができてしまってます。
そもそも、祖父の両親の話は最初に書いた2つ以外聞いたことがない。

それでも、まだ戦前か戦時中のことですが、その曽祖母が亡くなる時にお小遣いをくれて、

「動物園にでもいっといで」

と言われ、多分下の叔父と2人でだと思うのですが、今はないけど諏訪山の動物園に遊びに行き、帰ってきたら亡くなっていたらしいです。

本当はどういう人だったのかなあ、もっとおじちゃんおばちゃん達にも聞いておけばよかった。
さすがに高松のおじさんは覚えてないと思うし。

ちなみに、その曽祖母の出身の明石のM酒造ですが、合併して今はそこそこの大きさの酒造会社の一部になっているのではないか、と聞いています。

私が高校の頃、まだ大伯母達が存命の頃、江井ヶ島にあるお墓の話をしていたので、あの時によく聞いておけば、ご先祖のお墓参りに行けてたかも知りませんね。
うちの母親は場所を知らないそうで、一番上の伯母だけが「江井ヶ島のおばあさまの家に行きました」と作文に書いてたのを知るばかりです。

どこにあったのかなあ。
広島はすぐに行ける距離じゃないけど、江井ヶ島は日帰りできるところなので、知らないうちに血縁のある親戚とすれ違ってる可能性もあるのかも、と思うと、ちょっと変な気持ちになったりしますね。

あ、最後の最後ですが、私には小町の片鱗もございませんのであしからず(笑)