「ひよこの聞き語り」カテゴリーアーカイブ

ストッキングのつづくり~ひよこの聞き語り(48)

今朝の朝ドラでヒロインが「破れたストッキングの修理」をやらされる場面がありました。
自分でやろうと思ったのではなく、箱に入った破れストッキングを「やっとき」と押し付けられたので「やらされる」になりますね。

手作業で「ストッキングは薄いのでむずかしい」というようなナレーションがあったのですが、それを見て「あれっ?」と思いました。

実は母から聞いたことがあるのです、

「ストッキングのつづくり」

について。

「つづくり」と聞いても「何のこと?」と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、「つくろう(繕う)」のことですね。
破れた布やほどけた糸を縫って直すことです。

調べてみたら元々は古語から「つづくる」という言葉があり、それが近代に「つくろう」の方が一般的になったらしい。
ほう、知らなかった。
てっきり関西弁なのかと思ってたら、そうでもなかったんですね。

とにかくそのストッキングを「つづくる商売」というのがあったらしいのです。

朝ドラの時代は昭和28年、うちの母親の娘時代にあたりますから、ちょうどタイムリーなストッキング世代です。
母親は社交ダンスをやってたので、余計に履いてただろうな。

とにかくストッキングは当時は今よりもっともっと高価だったので、ちょっと破れても捨てる、というものではなかったのです。
なので破れたら「つづくろい屋さん」に持って行って直してもらってたとか。

なんだか編み機みたいなもの?で一本一本また縫い戻すみたいにしてたらしい。
今朝の朝ドラみたいに「縫う」のではなく「編む」ような形です。
そうすると元通りのようになって破れたところが目立たなくなる。

「1本いくらでつづくってもらうから、縦に長くほつけるより短くても横に広い方が高かった」

のだそうです。

朝ドラのように手で縫うと、どうしても縫い目が分かりますよね。
それに持って行ってすぐに目の前ですぐに「つづくって」くれるのではないから、戻ってくるまでにああいう風に内職に出すと日にちがかかる。
というか名札もついてる感じがしなかったので個人的に請け負うと言うよりは、下取りにして修理したのを安くリサイクルで売るのかも知れません。

なんにしても、今ではないお仕事だと思います。
今だったらぽいっと捨ててしまうか、たくさん集めてクッションにする、掃除に使う、玉ねぎを入れて干す、とか、もう一度履いて使うという選択肢はないような気がします。

そういや私はここ何年もストッキングを履く生活をしていません。
タンスには一応入ってるけど、中で古くなっていざ履こうと思ったら全部破れて、なんてことないだろうなあ?
一度チェックしてまた買っておかないと!
ちょっと女子としてどうなの?と気づいて慌ててしまいました(笑)

どんなことをしても生きて帰る!~ひよこの聞き語り(47)

先日、アメリカに住んでいて日系人収容所に入ったことのある伯父さんから聞いた話を書きました。
今日はまた違う伯父さんから聞いた話を書きたいと思います。

こちらの伯父さんは母の姉の夫です。
同じ市内に住んでいて、よく話をして色々聞かせてもらいました。
大抵が四方山話で戦争の話ばかりじゃないですけどね。

伯父さんは戦争の時中国に送られていました。
ちょっと今正確なことが思い出せないんですが、その時は多分十代後半から二十代前半ぐらいだったので、初年兵の二等兵から招集されたんじゃないかな、と思います。

入営して中国に着いてからは、よく映画やドラマで見るように厳しい状況だったようです。
誰かが失敗するとみんな並んで順番にビンタを食らわされたりして、すごく辛かったと聞きました。

中国のどのあたりにいたのか分かりませんが、兵営で毛布をかぶって寝ても、朝になったら隙間から吹き込んでくる黄砂で真っ黄色になっていたとか、どういう状況なのか想像もつかないんですが、

「だぶんだぶん(って言ったと思う)な地面があった」

というのがすごく記憶に残ってます。

私のイメージではテレビの実験で片栗粉にちょうどいい量の水を入れると上が歩ける、だったかな、そういうのを見たんですが、そんな印象です。
止まると沈むのに歩くと歩ける、ありますよね、そういう土地だったみたいです。
そこを車で走ると通れるんですが、足で降りるとずぶずぶ入るって言ってたような気がするので。
そういう不思議な土地がいっぱいあった、と教えてくれました。

とにかく戦争で行ってたのに、

「死ぬまでにもう一度行ってみたい」

と言っていました。

言っておいでよと言いつつ、行かないまま亡くなってしまいましたが、伯父さんにとってはそれほど魅力的な場所がいっぱいあった場所でもあったようです。

そんな伯父さんでも、やはり戦争ですから死ぬような目にも何度も会っているそうです。

「お昼はニコニコして挨拶する中国人が夜になったらゲリラになって襲ってくるのは本当に怖かった」

とも言ってました。

不思議な感じですよね。
私だったらお昼にニコニコはできないなあ。
襲ってくるのも日本兵憎しというより強奪が目的だったような、そんなことも言ってた気がする。

ある時も敵軍からかそういうゲリラかちょっと忘れましたが襲撃を受け、伯父さんはとにかく敵から見えないように低く低く、存在感を消しながら地面にできるだけくっついて、最後には、

「ヘルメットのつばでさらに土をかいてもっと低く低く潜ろうとした」

ぐらい必死で隠れたことがあったそうです。

そして、

「どんなことをしても生きて日本に帰ると決めた」

そうです。

みんな生きて帰りたいと思ってたと思います。
そして叶わずに帰れなかった人もたくさんいらっしゃいます。
思いだけ叶うことではないんですよね・・・

伯父さんは一生懸命考えました。
どうしたら生きて帰れるかと。

「それで思いついた、できるだけ本部に近いところに配属されたらええんや」

戦闘の時、やっぱり前衛から攻撃に行くんでしょうね。
本部は生き残らなくてはいけないから、そこにいたら最後まで生き残るチャンスがある。

伯父さんはとても字が上手でした。
そして計算とかもできたのかな。
そういう能力があるということを、事あるごとにアピールして、なんと、本部付きの事務方に配属されることに成功したそうです。

そして運もあるでしょうが、無事に終戦を迎え、生きて日本の土地を踏むことができました。

私が直接話をしたことのある親族で、戦争に行ったのはこの母の姉の夫である伯父さんと父の兄である伯父さん2人だけです。
少しばかりの話ですが、それでも一番話を聞いたのはこの伯父さんで、そのことをまた少し書いてみたいなとも思いました。
生きて帰ってくれたからこそ聞けたこと、重要だなと思ったので。
次の「聞き語り」もそのエピソードを書くと思います。

伯父さんがいた日系人収容所~ひよこの聞き語り(46)

今朝のニュースでアメリカの違法移民収容所に対するデモ?をやっているというのを見ました。

難しい問題だと思います。
自分の国では生きていけないから自由な国に行きたい。
でも受け入れる国にも限度がある。

来る人にもよるとも思います。
郷に入っては郷に従えならいいけど、そこを自分のいいように変えてしまおうとされたらやっぱり反発も出ますし。

それで思い出したことがありました。

私の伯父さんはアメリカで日系人収容所に入っていた経験があります。
伯父さんですが、血のつながりはなく、伯母さんの結婚相手の伯父さんです。

伯父さんは家族の半分とアメリカに渡って牧場をやっていたそうです。
残り半分は日本に残っていて、戦後、そこに帰ってきてうちの伯母さんと結婚しました。

少し話がずれますが、この結婚がちょっと面白いものでした。
元々、姉妹の姉の方が弟と結婚していて、その人の兄である伯父さんが日本に戻ってお嫁さんを探していて、妹の方の伯母さんと結婚したのでした。
なのでどっちが兄でどっちが弟?どっちが姉でどっちが妹?な関係になってました(笑)

そういう関係なので伯父さんと伯母さんはかなり年齢が離れてました。
大家族の父親の姉ですが、伯母さん同士も結構年が離れてましたし。

伯父さん達は住んでた場所もうちとはそこそこ遠かったので、ゆっくり話を聞いたのは高校生の時、妹と2人で遊びに行かせてもらった時だけです。
親戚の冠婚葬祭にも、伯父さんはもうそこそこ高齢だったので伯母さん一人で来ることもあって、そんなに回数は会ってませんでしたから。

伯父さんの家に着いてびっくり。
その頃の私から見たお年寄りの家って純日本風、例えばこたつがあって和室でだったんですが、さすがアメリカで育っただけあってもろに洋風だったんですよ。
和室もあったと思うけど、伯父さんはリビングのソファで寛いで、アメリカ映画に出てくるアメリカ人みたいに生活してました。
いとこに親戚の写真を見せてもらったけど、やっぱり外国人は多く混じってたのも面白かったなあ。

その伯父さんと色々話をしていて、何の流れからか「日系人収容所」の話になりました。

伯父さんの話を要約すると、色々な収容所があったようだが伯父さんのいた収容所はかなりフレンドリーで好意的で、収容するというよりは守ってくれてたような感じだった、というようなことを言ってました。
閉じ込めてすまない、みたいな感じだったと。

「食べ物や物資も豊富で牛乳なんか有り余るほど配られて、残して減らされると困るから使い切るために若い奥さん達は牛乳風呂に入ってお肌つるつるだった」

ですって(笑)

戦時中の話、これはなかなか難しい話だと思います。
楽しい時代だったわけがない。
命の危険もありますし、家族を失ったりもしてる。
なので楽しい話をしてもそれが全部ではないでしょう。

ただ、戦争の時代だからと言って笑えることがなかったわけではない。
普通の人の生活がそこにはありました。
漫画で映画の「この世界の片隅に」に描かれてるように、日常の生活があったんですよ。
私が家族、親族から聞いたのは、その日常に近い部分が多いと思います。

アメリカにいた伯父さんも、いくらフレンドリーだったと言われても、国から命令があって日系人を殺してしまえ!と言われたらその好意的な人達の銃口が自分に向くかも、という意識はあったと思いますし、心の底から安心して収容所にいたわけではないと思います。
そう思うとやっぱり普通の時代ではないけれど、それでもそういう事実もあった。

私の伯父さん達、血縁がある人もない人も戦争で亡くなってます。
会ってないけど、会ったことはないけど確かに存在した人達で、私の親やおじさんおばさん達にとっては兄弟で、いとこ達にとっては親です。
そんな近い人が亡くなってるんですよね、骨も戻ってこず、最後の様子もよく分からずに。

ただ、そんな中にも普通の生活は確かに存在してた、と私はそんな人達から聞けて幸運だと思います。
戦争だけではなく人間がいたんだ、と感じることができますから。

そして人間がいなくなるような、存在を見えなくなるような戦争はもう決して起こってほしくない。
そう思ってることだけは確かです。

「まんぷく」の鈴さんに似てる気がする「おばちゃん」~ひよこの聞き語り(45)

10月から朝ドラが新しくなって「まんぷく」が始まりました。

1回目から欠かさず見てるんですが、今日、ちょっとあることを思い出して愉快になってしまいました(笑)

「なんか、この鈴さんってちょっとおばちゃんに似てるかも」

私の母の一番上の姉であるおばさんです。
私が中学の時に亡くなったんですが、ふと思い出しました。

「鈴さん」とは、主人公の「福子」のお母さんなんですが、

「私は武士の娘です」

が口癖で「松坂慶子さん」が演じてらっしゃいます。

「私は武士の娘です」というと、大抵が貧しかったとしてもキリッとしてしっかりして、いざとなると懐から懐剣でも出してきそうな娘さんをイメージしますが、この「鈴さん」は全然違う(笑)

始まった最初の月曜日と火曜日、

「このお母さん、武士の娘って言いながら全然そういう感じに見えない」

と、ちょっと変な感じがしてたんです。

ですが、それがなんというか「狙い」だったんですね、3日目の水曜日あたりで分かって笑ってしまった(笑)

「武士の娘」と言いながらさびしかりで文句が多くてすぐすねる。
それでいて負けず嫌いで見栄っ張りでプライドだけはめっきり高い。

なんかボロカスですが、それでいて愛すべき人って感じなんですよね。
そういう部分、おばちゃんになんか似てる(笑)

母の一番上の姉ですが、母とは15歳離れてました。
そしておばちゃんの次、長男の伯父とも7歳離れてます。
間で一人亡くなっているからだそうです。

兄弟姉妹の中で一人だけ年が離れていて、お姫様みたいに甘やかされて育てられていたそうで、自分を一番にしてくれないとすねる、みたいなタイプだったなあ(笑)

さびしがりだからか、他の兄弟姉妹、そして自分の娘が結婚する時も全部に文句言ってケンカして「結婚式に出席しない」をやってます。
一番最後、もう年齢もいってから結婚した母の上の伯母の時だけは、さすがに言わなかったらしいですが。

元々が結構な大家族で生活してたので、祖父母が亡くなった後、戦死して夫もおらず、一人ずつ家族が減っていくのがさびしかったんでしょうね。
そのさびしさが不満や愚痴になって、でも正直にさびしいと言えなくてみんなを怒らせてケンカして、とそういう風になったようです。

うちの両親の披露宴は「花隈」の大伯母の料亭でやったんですが、それにも絶対参加しないと言いながら、普段着にエプロンで、大広間の外の廊下に座って見てたとか。
母が「あそこまで来るんやったら出ればいいのに」と思いだしてはぷりぷりしてたなあ。

当時「元町の家」に住んでた母が、もう少し西の「荒田町」にあった父が間借りしてた部屋に荷物を運ぶ時に、

「これもうちのやから、これも、これも持っていかんといて、触らんといて」

と、片っ端からいちゃもんをつけるのでひどくケンカをしたらしいです。

そしてそんなことを言っておきながら、

「トラックに荷物を積んで紅白の幕を張って吉日に荷物を出すように」

と言うので母が、

「嫁入りダンスは家具屋さんから送ってもらうし、そんなに持っていく荷物がないからそんなんいらんから」

と言うと、

「嫁入りするのに世間に恥ずかしい、花嫁の荷物も出さへんなんて」
「トラック出すほどの荷物ないのにどうやって幕張るんよ」
「両端に荷物乗せて間開けて上から幕張ったら分からへん」
「あっちに着いて幕外したら空っぽって分かるやん、そんな恥ずかしいことできへんから!」

と、言い合いになったとか(笑)

他にも、

「もう出て行ったら帰ってこんでええ」
「帰ってこんわ」
「来ても水しか出さへんから」
「帰ってこえへんのにどうやってお水なんか出すんよ!」

とか、なんか漫才?って感じの言い合いがいっぱいあったらしいです(笑)

当時は母もものすごく腹を立てての大げんかだったらしいんですが、想像すると私は笑ってしまいます(笑)

そして結婚式の時までそういう感じで完全に母は怒ってしまい、新婚旅行に行ってもおばちゃんにはおみやげを買わないと言ってたらしいのです。

そうしたら父が、

「お姉さん一人にそんなことできん、だったら自分が買う」

と、新婚旅行先で腕時計を買ったんだとか。

そして、旅行から神戸に戻った時、新居ではなく一番におばちゃんの家に顔を出し、父がその腕時計を渡したら、ポロポロ涙を流してたらしいです。
じわっときますよね。

それまで、自分の兄弟姉妹も他の人のことも文句ばっかり言ってたらしいんですが、他の方が言うには、

「◯◯さん(うちの母のことです)のご主人のことだけはほめることはあっても悪口を聞いたことがない」

らしいです。

それまで誰とでもケンカしてたのはさびしかったから、一人になるのが怖かったから。
それを父が、どこよりも一番に自分の家に帰ってきてくれて、しかもそんな高いお土産までくれた。
物が欲しかったとか、言うことを聞かせたかったとかではなく、さびしい気持ちを分かってもらって泣けたんじゃないかなと私は思います。

そうそう、その腕時計、長く大事にしてたらしいんですが、近所の子供たちに勉強を教える仕事をしてたので(塾みたいなもんです)しょっちゅう人が出入りして、気づいたらなくなっていたとか。
えらくがっかりしてしょげてたらしいですが、私はその実物も見たことないし、おばちゃんから聞いたこともないなあ。

結局、私が生まれた時も母はおばちゃんの家に里帰りし、それからも毎週のように実家のように帰るようになり、私が物心つく頃にはそんなトラブルメーカー的なこともめっきり減り、とてもかわいがってもらいました。

そのおばちゃんがね、

「これからはみんなパパママでないと」

と、みんなにパパママ呼びを推奨し、なぜだか自分までうちの父親のことを「パパ」と呼ぶようになったせいか、他の人までみんなうちの父親を「パパ」と呼ぶようになってしまってました(笑)

そのおかげで私はいい年になった今でも「パパ」呼びが残ってます。
他の人達はみんなそこそこの年齢で「お父さん」に変わったのに、うちだけ残ったのはほぼ間違いなくおばちゃんのせいだ(笑)

うちが今の場所に引っ越して父親が商売をすることが決まり、家が遠くなるのをさびしがりながらも、客間をおばさんの部屋にと両親が言ってたので、それを楽しみに楽しみにしてたのに、待ちきれずに引っ越す半年ほど前に亡くなってしまいました。

私は、高校受験と引っ越し、父親の転職開業と色々なことが重なって、あまりおばちゃんにやさしいこともしてあげられなくなってたと思います。
もうちょっとだけいてくれたなら、もっと、もうちょっと何かしてあげられてたのに、と胸が痛くなるおばちゃんとの聞いた話と、自分が見てきた話でした。

竹やぶを抜けると・・・ひよこの聞き語り(44)

母親の疎開時代の汽車にまつわる話をいくつか書きました。
それでもう一つ思い出した話があります。
正確には汽車は直接関係ないです。
汽車を降りて家に帰るまでの間の出来事、通学路での出来事ですが、汽車を降りた時の母の気持ちを考えると、なんと言っていいものやら・・・(笑)

「田舎のニュースは早い~ひよこの聞き語り(41)」で、母が住んでいた家の位置が「駅と駅の間」と書きました。
家の位置を通り越し、次の駅で降りて戻るわけです。

その戻る道ですが、田舎なのでもちろんさびしい道です。
同じ汽車で降りて同じ方向に帰る人がいたらお連れさんがいるわけですが、いなかったら一人でさびしい道を歩いて帰ることになります。

途中、竹林を抜けると一軒の家が見えてきます。
ある時、その家のおばあさんが亡くなりました。

知っているおばあさんではありますが、母とは親戚でもないし、普通に学校に行き、普通に授業を受け、普通に帰ってきました。

駅を出て、いつもの道をいつものように帰ってきたのはもう夕方だったらしいです。
女学校の授業が終わって帰ってくるんですから、まあそのぐらいにはなるでしょうね。

竹やぶを抜け、いつものようにその一軒の家が見えてきた時、誰かが座っているのが見えてきました。
うちの母親は結構きつい近視でした。
多分、その頃はもう近視だったと思うんですが、メガネをかけていたかどうかはではちょっと分かりません。
分かりませんが、遠くがはっきり見えてはいなかったと思います。

誰かが座っているのは分かったけど、誰かは分かりません。
どんどん歩いて家に近づき、その人が誰か分かって腰を抜かさんばかりに驚き、転がるように走ってその場から逃げました!

座っていたのは、亡くなったと聞いていたはずのおばあさん!!!

これは怖い!
竹やぶを抜けて、ぼんやりと見えてきたのが亡くなったと聞いたはずのおばあさん!
私だったら泣きながら腰を抜かすか気絶するかも。

家にたどり着き、亡くなったはずのおばあさんが!と言って、理由が分かりました。

当時、今と違って亡くなった方を入れるのは「座棺」と言って、時代劇とかで見る桶のような丸い棺だったんです。
その棺に入れるのに、亡くなったおばあさんを座らせて布団で巻いたんですね。
死後硬直が始まる前に、そうして型をつけておいたんだそうです。
母が見たのは、その姿だったんですね。

いやいやいや、実物の遺体も怖いって(笑)
なんで外から見えるところにそんな形で(笑)

それからしばらくの間、とても一人では帰れず、誰だったかな、誰か知ってる方に一緒に帰ってもらうようになったらしいです。
うん、そりゃそうだ(笑)

その道しかなくて仕方なかったらしいけど、私だったら学校行けなくなってたかも知れません(笑)